あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は何のために生きているのか。(欲動その8)

2024-02-11 16:00:42 | 思想
たいていの人は、一生のうちに、何度か、自分は何のために生きるているだろうと自問する。いったい、人間は何のために生きているのか。
端的に言えば、快楽を得るために生きているのである。しかし、人間は意識して快楽を求めて思考して行動していない。無意識に行っているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。それをフロイトは快感原則と呼んだ。深層心理の動きだから、人間はそれに無自覚なのである。さらに、ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるから、ますますそれが自覚できないのである。人間の自ら意識してのの精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で思考して自ら主体的に動いていると思い込んでいるから、ますます、深層心理が快感原則に基づいて思考して生み出した自我の欲望に動かされていることを自覚できないのである。だから、ほとんどの人は自らが深層心理に動かされていることに気付いていないだけでなく、気付こうとしていないのである。なぜならば、深層心理の思考が自らを動かしていることを認めると自らの主体性を否定することになるからである。同様に、ほとんどの人は、自らが快楽を求める自我の欲望に動かされていることに気付いていないだけでなく、気付こうとしていないのである。なぜならば、自らが快楽を求める自我の欲望に動かされていることを認めると自らは俗なる存在になるからである。次に、なぜ、既に生きているのに何のために生きているのかという疑問が生じるのか。それも、一生のうちに、何度もこのような疑問を繰り返すすのか。これも、また、人間は自ら意識して思考して行動していないからである。言い換えれば、人間は無意識の思考に動かされているからである。だから、無意識の思考、すなわち、深層心理の思考が難問に突き当たり解決の方向性が見出せず、さらに、自らを意識した思考、すなわち、表層心理の思考でも解決の方向性が見出せない時、自我の存在基盤が緩み、生きていること自体に疑問を覚え、自分は何のために生きているのだろうと自問するのである。解決の方向が見いだせないとは快楽を得るための自我の欲望を生み出せないことを意味する。すなわち、深層心理の思考も表層心理での思考も快楽を得るための自我の欲望を生み出せず、自らの存在が危うく感じられた時、人間は自我に自信を失い、何のために生きているのだろうと生きていることに疑問を覚えるのである。それでは、深層心理は、すなわち、人間はどのような状態になれば快楽が得られるのか。それは、自我の状態が欲動にかなったものになった時である。そこで、深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものにしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、深層心理は、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。それでは、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。自我の欲望は感情と行動の指令が合体したものである。すなわち、深層心理は感情を動力として生み出し、自らが生み出した行動の指令通りに人間を動かそうとしているのである。次に、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に所属して、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・国家公務員・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県会議員・地方公務員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・来客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我として行動しているのである。人間は、構造体に所属し、自我を持つことによって、自分の役割・役目を認識し、それに沿って行動しているのである。社会的に生きている人間にとって、自分と自我である。肉体は同じだが、所属する構造体ごとに、異なった自我を持つて、人間は自我として行動するのである。すなわち、自分とは自我なのである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、この四つの欲望に基づいて思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。道徳観や社会規約を守るという志向性は表層心理の思考に存在しているのである。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。しかし、人間は、必ずしも、自我の欲望に従って行動しない。自我の欲望に従って行動すれば、ルーティーンから外れた行動になる場合、まず、超自我という機能が自我の欲望を抑圧しようとする。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送っているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。超自我が深層心理が生み出したルーティーンから外れた行動の指令を抑圧できなかった場合、人間の表層心理に自我の欲望が意識に上り、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうとすることである。フロイトはこの志向性を現実原則と呼んだ。すなわち、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。表層心理での思考で行動の指令を拒否する結論が出れば、意志によって、行動の指令を、抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、表層心理の意志は、深層心理が生み出した動の指令を抑圧できず、そのまま行動してしまうのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そうしているうちに、たいていの人は、いつしか苦悩が薄れ、心の傷も癒えるのである。しかし、ごくまれに、苦悩が続き、精神疾患に陥る人、苦悩から一挙に逃れようとして、罪を犯す人がいる。その端的な例が失恋である。言うまでもなく、失恋は、恋人がいた者にしか訪れない。数年前、ストーカー殺人事件の犯人として、男性が逮捕された。三年間交際し、彼が結婚を申し込もうと思っていた矢先、彼女から、「好きな人ができたから、別れてほしい。」と言われた。彼は説得を試みたが、彼女の気持ちは変わらなかった。諦められない彼は彼女に付きまとった。身の危険を感じた彼女は警察に相談した。警察は、彼を呼び、注意した、彼が謝罪し、納得したようなので、警察はそれ以上踏み込もうとしなかった。その三日後、会社帰りの彼女が、近所のスーパーで買い物し、アパートに入ろうとしているところを、彼が、包丁で、背後から襲い、刺殺した。なぜ、彼は彼女を殺したのか。それは、深層心理が強い怒りの感情と彼女を殺せという行動の指令を生み出したからである。失恋という傷心の苦悩から逃れるために、深層心理が強い怒りの感情と彼女を殺せという行動の指令を生み出し彼を動かしたのである。なぜ、深層心理は傷心という苦悩のるつぼにはまり込んだのか。それは、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望全てが阻害されたからである。彼女から別れを告げられ、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという保身欲が阻害されたからである。彼女から別れを告げられ、恋人という自我を認めてもらいたいという承認欲が阻害されたからである。彼女から別れを告げられ、彼女の愛情を独占したいという支配欲が阻害されたからである。彼女から別れを告げられ、愛し合うという共感欲が阻害されたからである。深層心理は、傷心という苦悩から脱するためにはカップルという構造体を復活するさせるしか無く、様々な付きまとい方を行動の命令と生み出し、彼を動かしたが、その試みがことごとく失敗し、より嫌われ、カップルという構造体を復活するさせることはできないと思い知ったから、強い怒りの感情と彼女を殺せという行動の指令を生み出し、彼を動かしたのである。もちろん、深層心理が生み出した行動の指令であるストーカー行為も殺人も、ルーティーンから外れ、後に、処罰される行動である。だから、深層心理に内在するルーティーンを維持しようという超自我の表層心理での現実原則による思考によって抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した傷心という苦悩や怒りの感情が強過ぎる場合、超自我も表層心理の思考も抑圧できないのである。しかし、後に処罰されると表層心理でわかっているから、ストーカー行為は他人に知られないように行い、殺人はそのあと逃げ出したりその場に呆然とたたずんでいたりするのである。また、失恋が原因で精神疾患に陥る人も稀にいる。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、精神疾患に陥り、40年間を精神的薄明のうちに過ごし、亡くなった。一般に、精神疾患は、マイナス面しか知られていない。そこには、常に、苦悩がつきまとったり、尋常な精神状態で日常生活が送られなかったりするからである。だから、誰しも、そこに陥りたくない。陥った場合には、できるだけ早く抜け出したい気持ちになるのは当然のことである。しかし、精神疾患とは、最も差し迫った問題を解決する苦悩から逃れるために、深層心理が選択した窮極の手段なのである。このような深層心理の働きを、フロイトは、防衛機制と呼んだ。しかし、深層心理は、人間を苦悩から逃れさせるために精神疾患に陥らせるが、精神疾患に陥った人間が、その後、それをどのように引きずっていくかまでは考えない。だから、精神疾患は、苦悩から逃れることには一定の効果を有するが、その後は、精神疾患それ自体が、その人を苦しめることになるのである。しかし、人間は、表層心理で、自らの意志によって、直接的に、深層心理を動かすことはできない。深層心理とは、人間の心の奥底に存在する、意識されることもなく、意志によらない、心の動き・心の働きだからである。だから、人間、誰しも、精神疾患に陥ることをを止めることができないのである。また、失恋の傷を癒やすために、自分探しの旅に出る者もいる。なぜ、自分探しをする必要があるのか。それは、恋人の愛を失ったこどで、自我に自信を失ったからである。それほどまでに、人間は、他者の評価に身を委ねて暮らしているのである。承認欲を満足させることが人生の大きな目的になっているのである。失恋し、深層心理は、自己嫌悪や自信喪失に苛まれ、この重い気分から逃れるために、人間を旅に出させ、確固たる自我を見つけさせようとするのである。すなわち、自分探しの旅とは、確固たる自我発見への旅なのである。しかし、自分探しは、必ず、失敗する。なぜならば、確固たる自我は存在していないからである。この世には、確固たる自我で生きている人は存在しないのである。人間は、皆、自我の欲望を満足させるために、生きているのである。しかし、旅は、自己嫌悪や自信喪失に苛まれ重い気分に圧迫されていた深層心理を解放させることがあるのである。なぜならば、旅は、深層心理をルーティーンの生活から解放させ、深層心理に旅人という自我を得させることによって、深層心理は、遠くから、ルーティーンの構造体や自我を見ることができるからである。そうして、深層心理は、すなわち、人間は、清新な気持ちで、日常生活に戻っていくのである。再び、ルーティーンの生活が始まるのである。そして、人間は、常に、構造体に所属し、自我として行動するのである。さらに、深層心理は、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすのである。そして、深層心理の思考も表層心理での思考も快楽を得るための自我の欲望を生み出せず、自らの存在が危うく感じられた時、人間は自我に自信を失い、何のために生きているのだろうと生きていることに疑問を覚えるのである。この繰り返しで生きているのである。




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