あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

サルトルはもういない。(欲動その10)

2024-03-04 16:39:48 | 思想
フランスの哲学者サルトルはもういない。世界には、自らの良心に従って思考し、自らの良心に従って行動する人はもういない。自我の欲望に従って生きている者しかいない。サルトルは「人間は自由へと呪われている。」と言った。「人間は、全てのことにおいて、自ら思考して、自ら決断して、自ら行動できる。だから、全ての行動の責任を自ら取らなければいけない。人間は、誰一人として、この運命から逃れることはできない。」これがサルトルの言葉の意味である。また、サルトルは、「実存は本質に先立つ。」とも言った。実存とは、自分自身で主体的に思考して行動する生き方である。本質とは、人間本来の定まった行動や生き方である。つまり、サルトルは、「人間には、定まっている行動の仕方や生き方は存在しない。自分で思考して行動しなければいけない、そして、その責任を取らなければいけない。ここから逃れることはできない。」と言うのである。これがサルトルの考え方・生き方であるととに、実存主義という思想である。さらに、サルトルは、「神が存在していようと存在していまいと、私には関係がない。」とも言っている。サルトルは、「自分の行動は自分が決めることであり、自分は神を恐れることもなく、神に頼ることもない。」と言っているのである。これが無神論的実存主義と言われる所以ある。確かに、サルトルの覚悟は潔い。また、死ぬまで、自分の言葉通りに考え行動した。また、ノーベル文学賞を授与されようとしたが、「作家は自らを既成の制度にあてはめることを拒絶しなければならない。」と言って、受賞を拒否した。サルトルは、フランス人でありながら、アルジェリアのフランスからの独立闘争を支持した。フランス人という自我に捕らわれず、自らの言葉の通り行動した。晩年は不遇だったが、それでも、葬儀には、5万人を越える市民が追悼をするために集まった。サルトルは、全てにおいて、自我にとらわれなかった。自我とは、構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自らのあり方とする存在者である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他人を意識しながら、自我として行動しているのである。他者とは、構造体内の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間、県、国などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では、知事、県会議員、県民などの自我があり、国という構造体では、総理大臣、国会議員、官僚、国民などの自我がある。たとえ、一人で暮らしていたとしても、孤独であっても、孤立していても、人間は、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他者と他人を意識しながら、暮らしているのである。他者とは構造体内の人々である。他人とは構造体外の人々である。しかし、サルトルは、フランス人という自我にとらわれることなく、自らの良心による思考によって、フランスから独立しようといていたアルジェリアを支持したのである。サルトルにとって、人間の意識しての良心による思考、その思考の結果としての意志、決断、そして、行動が全てであった。サルトルは、人間の無意識での思考を認めなかった。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、サルトルは、深層心理の思考を認めなかった。サルトルは、自らを意識しての思考しか認めなかった。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、サルトルは表層心理での思考しか認めなかった。しかし、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。つまり、人間は自我の欲望に呪われているのである。サルトルのような人だけが、自らの良心による、無神論的実存主義の思想を行使できるのである。しかし、人間は自我の欲望を満たすためにはどのようなことでもするのである。自我に取りつかれ、自我の欲望に動かされて生きているのである。人間は、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。深層心理は、快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。人間は、自我が欲動にかなった状態であれば快楽が得られるのである。そこで、深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものにしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理のこの動きを、フロイトは快感原則と呼んでいる。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状態が欲動の四つの欲望のいずれかにかなったものであれば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は欲動の四つの欲望に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているのである。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で思考する時である。さて、欲動の第一の欲望は自我を確保・存続・発展させたいという保身欲であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、この欲望を満たそうとする。人間がルーティンの生活を維持しようとするのは、保身欲からである。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したいからである。人間が、離婚、退学、退社を忌避するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を失うのを恐れているからである。人間が、会社などの構造体で昇進を喜ぶのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われているが、単なる自我愛である。また、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのも、愛国心からだと言われているが、それも、単なる自我愛からである。また、愛国心という自我愛があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明され、推賞される。しかし、真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であり、自我愛である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、国家観の戦争が無くなることはないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるのである。深層心理は、自我を対他化して、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、他者から評価認められたいという思いで自分がどのようにみられているかを探ることである。人間は、誰しも、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。例えば、会社で上司に口汚く罵られ、学校で同級生に侮辱される。そのような時、承認欲を傷付けられた深層心理は、怒りの感情と上司や同級生を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとする。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。つまり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令というルーティーンから外れた自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望とは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。これは、フロイトは現実原則と呼んでいる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないような視点から、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考える。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象(こと)などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることを対象の対自化と言う。つまり、対象の対自化とは、対象を志向性で自我の支配下に置くことなのである。対象の対自化とは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えようとする。」という意味である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、深層心理は、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が失われたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆を踊らせ、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。このように、人間は、動いているのではなく、深層心理によって動かされているのである。深層心理が、常に、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。ところが、ほとんどの人は、自らを意識して思考して、自らの意志によって行動していると思っているのである。確かに、人間は、自らを意識して思考することがある。人間は、表層心理で思考して意志を生み出すことはあるが。しかし、表層心理での思考は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せないので、それでは、人間は行動できないのである。表層心理での思考の結果である意志は、深層心理が生み出した行動の指令について容認するか抑圧するかの判断するだけなのである。しかも、人間の表層心理での思考は、現実原則という自我に利益をもたらすという志向性に基づくのである。つまり、所謂、利己主義の原則に貫かれているのである。さて、なぜ、この世から、殺人や戦争が無くならないのか。それは、人間は、深層心理が快感原則に基づいた思考で生み出した自我の欲望によって動かされているからである。そして、なぜ、殺人や戦争を見過ごすことができるのか。それは、人間は、表層心理で、快感原則に基づいて思考して行動しているからである。人間は、自己の意志で行動せず、自我の欲望によって動かされているのである。人間には、本質的に、自分の意志は存在しないのである。平穏な日常生活も残虐な犯罪も、自我の欲望がもたらしているのである。だから、他者や他人の犯罪に対しては正義感から怒りを覚える人が同じような犯罪を行ってしまうのである。他者や他人の犯罪に対する怒りも自らが為した犯罪も自我の欲望から発されているのである。だから、自我の欲望をコントロールできない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。すなわち、自らの正義に基づく志向性で思考し行動しない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。自己とは、正義という志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動することなのである。しかし、人間には自分そのものは存在せず、人間はさまざまな構造体に所属しさまざまな自我を持って行動しているということは、ほとんどの人は、自己としても存在していないということを意味するのである。自己として存在するとは、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、自我のあり方を、自らの良心・正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我の欲望にとらわれた自我から自らの良心・正義感に基づく自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、ほとんどの人は、自我の欲望と自らの良心・正義感が対立した場合、自我の欲望を選択するから、主体的に生きることができず、自己として生きることができないのである。なぜならば、自己として生きようとして、自らの良心・正義感に基づいて行動すれば、構造体から追放され、自我を奪われる危険性があるからである。時には、命を奪われる危険性があるからである。だから、人間が生きていくということ、すなわち、自我として生きていくということは不正を重ねることなのである。人間は、サルトルのような自らの思想に殉じた生き方をできないのである。






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