あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分とは自我と自己の関係である。(自我から自己へ20)

2024-04-11 15:27:33 | 思想
デンマークの哲学者キルケゴールは、『死に至る病』で、「人間は精神である。しかし、精神とは何か。精神とは自己である。しかし、自己とは何か。自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係すること、そのことである。自己とは関係それ自身ではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」と記している。「人間は精神である」とは人間は考える動物であるということである。「精神とは自己である」とは自分で考えるということと自分について考えるということという二つのこと意味している。「自己とはひとつの関係である」とあるが、なぜ、考えると言わず、「関係する」と表現したのか。それは、自分自身について考えているからであり、自分自身について考えることによって自分が変わっていくからである。「自己とはひとつの関係。その関係それ自身に関係する関係である」とは人間は、永遠に、現在の自分のあり方が正しいか、自分についての考えが正しいかを繰り返して追究して、変化していることを意味しているのである。現在の自分が現在の自分について考えて新しい自分ができる。その新しくできた自分がその新しい自分に考えてもっと新しい自分ができる。そのもっと新しくできた自分がそのもっと新しい自分に考えてもっと新しい自分ができる。その繰り返しで人間は成長していくというのである。思考する主体の自分と思考の対象者としての自分が対立するのである。そうすることによって新しい自分が生まれてくるのである。ヘーゲルの弁証法である。人間は、既に自分として存在しているが、常に、自分自身を問題にし、自分自身に関わりつつ存在している。このような動きの中で変化している。この動きそのものが自分であり、固定した自分は存在しない。しかし、このように考えていくと、自分は自分自身との会話、関係でとじられてしまう。そこで、後に、熱心なクリスチャンであるキルケドールは、人間は神によって措定されているのだから、自分自身と関係することは神に関係することにつながると説く。そこにおいて、人間は絶望から救われるのである。しかし、ニーチェの言う「神が死んだ」時代に生きている人間には、神は救いの手を差し伸べない。人間は、自我を持つと同時に、常に、自我のあり方を問題にし、自我に関わりつつ、自己を追い求めていくしかないのである。自分とは、自我と自己の関わりなのである。人間は自我を持つと同時に自我の欲望に動かされて行動するようになる。深層心理が自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。すなわち、人間は、無意識の思考によって動かされているのである。しかし、人間は、時として、自我の欲望を意識して思考して、自らのあり方を問うことがある。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。しかし、人間が表層心理で自我の欲望を意識して思考して自らのあり方を問うことだけでは自己になれない。人間は主体的に自我の欲望を問うことによって自己になるのである。それでは、自我とは何か、自我とは、ある構造体の中で、他者からある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我として生きているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。しかし、人間は、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他人を意識しながら、自我として生きているが、決して、自らを意識して思考して行動しているわけではない。深層心理が、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。人間は、自我の欲望に動かされて行動するが、それは、漠然とした欲望ではなく、感情と行動の指令が合体したものなのである。深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。深層心理が生み出した感情が動力となり、深層心理が生み出した行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。次に、深層心理は心境の下に思考するが、心境とは何か。心境は、感情と同じく、深層心理の情態を表している。情態とは、人間の心の状態を意味している。人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の良し悪しが人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考する。深層心理は、同じことを繰り返すというルーティーンの生活を維持しようと思考する。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味する。心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境は、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽、感動など、深層心理が行動の指令ととに瞬間的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。深層心理が、喜び楽しみなどの快い感情を生み出した時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒りや哀しみなどの不快な感情を生み出した時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。自我が褒められた時は、深層心理は喜びの感情と拍手喝采せよなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、他者に共感を求めるように人間を動かそうとする。自我が傷付けられた時には、深層心理は怒りの感情と他者に暴力を加えよなどの行動の指令通りという自我の欲望を生み出し、他者を下位に落とすことによって下位に落とされた自我を回復させるように人間を動かそうとする。自我がかなわない壁にぶつかったとき、深層心理は哀しみの感情と泣くなどの行動の指令を自我の欲望を生み出し、他者に慰めてもらうように人間を動かそうとする。自我が希望を持てたと説き、深層心理は楽しみの感情と現在の自我の状態を維持しろなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を未来に向かって歩めるようにを動かそうとする。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間を動かす力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しみが消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理が思考するのは、自我になっている人間を動かし、苦しみの心境や感情から苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態が大切なのである。深層心理は、常に、心境という情態に覆われていて、時として、心境を打ち破り行動の指令とともに感情という情態を生み出す。常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとしている時などに、何かを考えている自分、何かをしている自分、何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の深層心理を覆っている心境や深層心理が生み出した感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が深層心理に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在まで、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できるできないに関わらず、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。また、人間は、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、突然、自我を意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自我の心境とともに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識して、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の心境とととに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威であり、自我の存在を危うくさせる可能性があるからである。人間は、常に、他者に対して、警戒心を怠らないのである。人間は、一人でいても、無我夢中で行動していても、突然、自我の存在、すなわち、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することもあるのも、それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。しかし、人間は、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境も感情も変えることはできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、直接的に、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることによって間接的に変えようとするのである。それが気分転換である。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。次に、深層心理は自我を主体に立てて思考するが、それは何を意味するか。それは、深層心理が自我を中心に据えて自我の行動について考えるということである。つまり、人間は、自らが主体となって、思考し行動していないのである。だから、人間は、そのままでは、自己として存在していると言えないのである。自己とは、人間が表層心理で常に正義に基づいて思考して行動するあり方だからである。自己とは、人間が、正義に基づいて、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方なのである。だから、人間が、表層心理で正義に基づいて思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされている限り、自己として存在していると言えないのである。自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、人間は、よほどの覚悟がない限り、他者の思惑を無視して主体的に自らの行動を思考し行動することはできないのである。他者の思惑を無視して行動すれば、構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。だから、ほとんどの人は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動し、正義に基づく主体的な思考・行動はできず、自己として存在していないのである。次に、深層心理は欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配望である。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。それを、フロイトは快感原則と呼んだ。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間が、毎日、同じ構造体で、同じ他者に会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーンの生活をしていけるのは、欲動の第一の欲望である保身欲によるものである。深層心理が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間をルーティーンの生活をするように動かしているからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られそうになる時がある。それは、往々にして、他者から、侮辱されたりなどして、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望である承認欲が阻害されたからである。そのような時、深層心理は、怒りの感情と相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、暴力などの過激な行動を行わせ、承認欲を阻害した相手をおとしめることによって、自らの自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンの生活を守るために、怒りの感情を抑圧し、殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。深層心理には、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した超自我という機能が存在するのである。超自我は、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、表層心理で思考することになる。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。それを、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱した相手を殴ったりしたならば、後に、他者や他人の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できず、侮辱した相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、高校生・会社員が嫌々ながらも高校・会社という構造体に通学・通勤するのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのも裁判官という自我を守ろうという保身欲からである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は自殺した生徒よりも自分たちの自我を守ろうという保身欲から事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守ろうという保身欲から自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲からいじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。さらに、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、人間は、常に、他者の思いを推し量りながら生きている。それは、深層心理に、他者に自我を認めてもらいたいという欲動の第二の欲望の承認欲があるからである。承認欲が満たされれば、深層心理がつまり人間が快楽が得られるのである。だから、人間は、他者から褒められたい、好かれたい、存在を認められたいという思いで生き、行動しているのである。だから、人間はすなわち深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。フランスの心理学者のラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、承認欲の現象を表しているのである。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、承認欲の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理に内在する欲動から発した承認欲の作用によって起こるのである。さて、欲動の第三の欲望は支配欲であるが、それは自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。まず、他者という対象に対する支配欲であるが、それは、自我が他者を支配したい、他者のリーダーになりたいという欲望である。この欲望を満たすために、人間は、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために物を利用することである。山の樹木を伐採すること、物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感が得られるのである。さらに、支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在している時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しない時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。有の無化、無の有化によって、深層心理は、自我を正当化し、心に安定感を得ようとしているのである。最後は、自我と他者の心の交流を図りたいという欲動の第四の欲望である共感でがある。深層心理は、自我が他者と理解し合う・愛し合う・協力し合えば快楽が得られるので、自我の状態がそのようにしようと、自我である人間を動かそうとする。自我と他者が共感化できれば、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにすることができるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだしつつ、相手の愛を独占することを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、恋人という自我が相手に認めてもらいたいという承認欲が阻害されたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、未練が残る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理が人間にストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うためである。もちろん、ルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実原則の思考で、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、屈辱感が強過ぎると、抑圧できないのである。つまり、ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が阻害されたことの辛さだけでなく、恋人という自我を相手に認めてもらえないという諸運良くを阻害された辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者の共感欲が生まれ、そこに、連帯感の喜びを感じるからのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感欲が生み出したものである。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に相手を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感欲のなせる現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通の敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いにイニシアチブを取りたいという支配欲から、仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされているのである。そして、深層心理が自我の欲望として過激な感情とルーティーンのを逸脱するような行動の指令を生み出した時、超自我で抑圧できなければ、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、表層心理で、過激な感情の下で、ルーティーンのを逸脱するような行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。しかし、人間は、これ以外に、表層心理で思考する時があるのである。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時などである。人間は、他者の存在を感じた時、自我の存在を意識するのである。自我の存在を意識するとは、自我の行動や思考を意識することである。そして、自我の存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の存在を意識し、自我の行動や思考を意識するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自我の存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自我の存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じた時、表層心理で、自我の存在を意識して、現実的な利得を求める志向性から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」と言う。同じように、人間は、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自我の存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。しかし、人間が自らの存在を意識して、表層心理で思考して行動しても、主体的に生きているとは言えないのである。すなわち、自己として存在していると言えないのである。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則によるすなわち現実的な自我の利得を追い求める思考だからである。もちろん、深層心理の快感原則によるすなわち欲動の四つの欲望を満たして快楽を得ようして生み出した自我の欲望による行動も主体的な行動ではない。すなわち、自己としての行動ではない。自己とは、正義、良心に基づいて主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを勝ち取らなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を正義、良心に基づいて生きて、人間は、初めて、主体的に生きている、自己として生きていると言えるのである。人間は主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎないのである。多くの人は、自我を自己だと思い込み、自らは自己として生きていると思い込んでいるのである。しかし、自己として存在するとは、自我を、正義、良心に基づいて、主体的に、意識して、思考して、行動することだからである。人間の表層心理での思考を理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、正義、良心に基づいて、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、すなわち、理性で思考して、主体的に自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。現実原則による思考に陥りやすいからである。だから、たいていの人は自己として存在していないのである。人間が自己として存在しにくいのは、自我を動かすのは、快感原則の深層心理であり、それを反省するのは現実原則による表層心理の思考だからである。。自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から与えられるから、深層心理は、他者の思惑を気にして、自我が構造体から放逐されないように思考するのである。人間は、表層心理で、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、他者から白い眼で見られ、その構造体から追放される可能性、時には殺される可能性あるから、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。構造体から追放される覚悟、殺される覚悟がある人だけが主体的に自らの行動を思考し、自己として存在できるのである。







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