あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は自我に取り憑かれ、自我の欲望に動かされているから、悪逆非道なことができるのである。(無意識と意識1)

2022-05-25 18:33:34 | 思想
人類の滅亡しか地球には希望が残っていないのか。人間は、地球で最も残酷な動物である。人間だけが、同種で殺し合っている。人間だけが、多くの動植物を絶滅させている。公害という言葉があるが、人間の存在自体がが地球の公害である。なぜ、霊長類と自称し、全動物中最も知能が高いと自負している人間が、このような愚かで残虐なことを行い続けるのか。それは、人間の表層心理での思考の力が深層心理の思考の力に対して圧倒的に弱いからである。表層心理とは人間の自らを意識しての精神活動である。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。人間の表層心理での思考、すなわち、人間の自らを意識しての思考が理性である。人間の表層心理での思考を強調したあり方、すなわち、人間の自らを意識しての思考を強調したあり方が主体性である。人間は、自らの現在も未来も、理性と主体性に託している。しかし、理性も主体性も、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に屈服してしまうのである。深層心理が生み出した感情が強ければ、容易に、理性による思考や主体的な思考を押しのけ、深層心理が生み出した行動の指令通りに、人間を動かすからである、時には、深層心理が生み出した強い感情は、理性による思考や主体的な思考を押しのけ、人間をして、深層心理が生み出した暴行、レイプ、殺人などの残虐な行動に走らせることがある。時には、深層心理が生み出した強い感情は、理性による思考や主体的な思考を押しのけ、政治権力者をして、深層心理が生み出した戦争という残虐な決断に走らせることがある。このことが、人類だけでなく地球上の動植物にも悲劇、惨劇をもたらしているのである。つまり、深層心理が思考して生み出した自我の欲望が全ての悲劇、惨劇の源なのである。さて、深層心理が思考して生み出した自我の欲望が人間を動かしているのであるが、それでは、自我とは何か。自我は自分、自己とどのように関わり、どのように異なっているか。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。だから、人間は、自らを自分と称するが、自分は自我の総称であって、固定していない。人間には、自分という固定した存在はない。人間は、自分で動いていない。なぜならば、人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているからである。人間は、所属する構造体ごとに、異なった自我になるのである。すなわち、所属する構造体が自我を決定するのである。しかし、人間は、常に、構造体に所属して、構造体から与えられた自我に執着して暮らしているが、それを意識したり、疑問に思ったりする人は、ほとんどいない。なぜならば、深層心理が、自我に執着しているからである。深層心理とは、人間の無無識の精神活動であるから、人間は、自ら意識しなくても、自ら意志しなくても、自我に執着して生きているのである。つまり、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、深層心理が、人間を自我に執着させているのである。だから、人間は自分に執着して生きているが、自分とは、人間が、自ら選んだあり方では無く、構造体から与えられ、自らを他者や他人と区別して指している自我というあり方なのである。人間は、深層心理に支配され、深層心理が自我に執着しているから、人間も、自我に執着して生きるしかないのである。つまり、人間は、自我に成りきるのである。しかし、人間は、常に、自我を意識して行動しているわけではない。むしろ、意識せずに行動していることが多い。これが、所謂、無意識の行動である。しかし、無意識の行動とは、決して、思慮することの無い、漠然とした行動ではない。無意識の行動と言えども、深層心理が思考して生み出した行動なのである。ただ、それを意識していないだけなのである。深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動にかなった行動を行えば快楽が得られるので、深層心理は思考して、欲動にかなった行動を行動の指令として生み出し、人間を動かそうとするのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、快楽を得ようとするのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がある。そのために、深層心理は自我の保身化という作用を行う。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲がある。そのために、深層心理は自我の対他化という作用を行う。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲がある。そのために、深層心理は対象の対自化の作用を行う。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。そのために、深層心理は自我と他者の共感化という作用を行う。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲のいずれかの欲望に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。しかし、深層心理が、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かそうとしているが、快楽を求めるとはひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望であるから、深層心理には、道徳観や社会規約は存在しない。道徳観や社会規約は、自らの自我の欲望、他者や他人の自我の欲望を抑圧するために、人間が、表層心理で思考して、生み出したものである。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。もちろん、深層心理が快楽を得るということは人間が快楽を得るということであり、すなわち、自我が快楽を得るということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。欲動には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しないから、深層心理にも存在しないのである。だから、人間は、悪事を犯しても、快楽を得ることがあるのである。自我の欲望をがかなえられれば、快楽を得るのである。そこに、人間の存在の問題の原点が存在するのである。さて、無意識の行動という言葉があるが、無意識の行動とは、深層心理が思考して生み出した感情と行動という自我の欲望のままに行動していることに、人間が気づいていない現象である。人間の日常生活が、ルーティーンという同じ行動を繰り返していることに成り立っているのは、無意識による行動だからである。誰が、毎日思考して行動しているだろうか。それでも、人間が毎日ルーティーンという秩序だった同じ行動を繰り返すことができるのは、深層心理が自我を主体に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているからである。ほとんどの人は気づいていないが、人間は、常に、構造体に所属して自我となり、深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。ほとんどの人は、深層心理のの存在すら知らない。まして、深層心理が自我を主体に思考して自らを動かしていることに気づくことも無い。だから、無意識の行動という言葉が存在するのである。すなわち、日常生活が、ルーティーンという同じようなことを繰り返す無意識の行動になっているのは、人間が深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに無意識のうちに行動していることを意味しているのである。それは、また、構造体にも自我にも異常が無く、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動して良く、表層心理で思考することが起こっていないことを意味するのである。人間は、表層心理で自らを意識して思考すること無く、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、行動しているから、毎日、同じような行動ができるのである。人間は、表層心理で思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。まさしく、ニーチェの言う「永劫回帰」である。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、人間、誰しも、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンの生活が壊れそうになることがある。それは、構造体が壊れたり、構造体から追放されたり、自我が傷付けられたりして、平穏な日常生活が脅かされた時に起こる。妻から離婚してほしいと言われ、夫婦という構造体が壊れる。上司から馘首を言い渡され、会社という構造体から追放される。クラスという構造体で、クラスメートに悪口を言われる。そのような時、深層心理が、夫婦という構造体を壊し夫という自我を奪った妻、会社という構造体から追放し会社員という自我を奪った上司、悪口を言い自我を傷付けたクラスメートに対して、怒りの感情と暴力や侮辱などの復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、復讐の行動によって傷付いた自我を回復させようとするのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする。人間は、夫婦という構造体、会社という構造体、クラスという構造体だけで無く、他の多くの構造体にも所属しているから、超自我は事を穏便に済ませようとするのである。超自我は、深層心理に内在する自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強いと、超自我は、深層心理が生み出した暴力や侮辱などの復讐という行動の指令を抑圧できないのである。超自我が復讐という行動の指令を抑圧できない場合、復讐という行動の指令に対する審議は、表層心理に移されるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、道徳観や社会規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した暴力や侮辱などの復讐という行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。道徳観や社会規約は、人間が表層心理で思考して生み出した自我の欲望を抑圧する機関である。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果、すなわち、理性による思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した暴力や侮辱などの復讐という行動の指令を実行した結果、他者や他人がどのように思われるか、罰せられるか否かなどを、道徳観、社会規約の視点から思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を傷付けたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価、将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した復讐しろいう行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手に暴力や侮辱などの復讐、時には死をもたらしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、深層心理が納得するような代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それが、時には、精神疾患を招き、時には、自殺を招くのである。このように、深層心理の自我に対する執着は強く、人間は、表層心理での思考の結果である意志には、限界があるのである。しかし、それでも、人間には、表層心理で思考する機能があるから、悲劇や惨劇は、ここまででとどまっているのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した過激な行動の指令通りに行動したならば、自我がどうなるかということを、道徳観、社会的規約、他者の評価を考慮して、思考するから、悲劇や惨劇は、ここまででとどまっているのである。つまり、人間には、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激なために、自我が危機的な状況に陥った場合、表層心理で、自らの存在を意識して思考する機能があるから、人類は滅びずに存続できたのである。人間は、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出したとき、表層心理で、自らを意識し、自己に立ち返り、思考するのである。人間は、自らの存在、すなわち、自我をを意識すれば、自己に立ち返り、必ず、思考が始まるのである。すなわち、人間は表層心理で自らの存在を意識すれば、必ず、自己に立ち返り、表層心理で思考するのである。なぜならば、深層心理が過激な自我の欲望を生み出すときは、自我が危機的な状況にあるときだからである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時にも、自らの存在を意識し、自己に立ち返り、表層心理で思考する。つまり、人間は、他者の存在を感じた時に、自らの存在を意識し、自己に立ち返り、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激であった時や他者の存在を感じた時には、表層心理で自らの存在を意識して、自己に立ち返り、表層心理で思考するのか。それは、深層心理が、常に、他者に脅威を感じ、自我に危うさを感じているからである。さらに、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、自己に立ち返ることもある。無我夢中の行動とは、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに無意識に行っている行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識し、自己に立ち返ることがあるのである。そして、それと同時に、表層心理での思考が始まるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を覚え、自らの存在に危うさを覚えたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識し、自己に立ち返り、現実的な利得を求めて、思考するのである。つまり、深層心理の思考が人間の意志によって行われていないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われていないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、自己に立ち返り、表層心理での思考が必ず始まるのである。さて、人間が自らの存在を意識し、自己に立ち返るとは、ある情態の下で、ある思考にあることやある行動をしている自我を表層心理で意識するのである。情態とは、深層心理を覆っている心境や深層心理が生み出した感情のことである。ほとんどの人は思考や行動を重要視するが、人間にとって重要なのは、むしろ、心境や感情という情態である。人間は、心境と感情という情態によって、自らの存在を意識し、自らが得意の状態にあるか不得意の状態にあるか実感するからである。もちろん、得意の情態にあることが、人間の生き方の本意なのである。人間は、常に、構造体に所属し、深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているから、常に、心境と感情という情態が人間に付きまとうのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を存在するのである。つまり、心境や感情という情態こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、心境や感情という情態によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。心境や感情という情態が、人間の存在を知らせるのである。それは、自らを意識tした表層心理でも無意識の深層心理でも起こるのである。心境や感情という情態によって、人間は、表層心理でも深層心理でも存在を確信しているのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態に覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境や感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境や感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境や感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境や感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などにも、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う故に我あり」と言う。この言葉味は、私がいろいろな物やことの存在を疑うことができるのは、私が存在しているからだということを意味している。デカルトは、「我思う」ことができるのは「我あり」であることに気付き、そこから、私の存在の確信を得たと言っているのである。しかし、デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う以前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者、物、こと(現象)の存在が証明できるから、これらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、これらの存在を前提にして活動しているのである。だから、デカルトの思考は、不要なのである。それは、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているからである。だから、人間は心境や感情という情態から逃れることはできないのである。深層心理が憂鬱な心境の時には、何事も嫌に思えるのである。また、褒められても、深層心理が不愉快な感情を生み出せば、不愉快なのである。しかし、深層心理に流れている心境が憂鬱であっても、深層心理が生み出した感情が怒りや不愉快であっても、人間は、表層心理では、変えることができないのである。心境や感情という情態は、深層心理の範疇にあるからである。それほどまでに、人間は、深層心理に支配されているのである。心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、人間は、誰しも、意識して、すなわち、表層心理で、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、一旦、今までの心境は消滅し、その後、新しい心境が現れてくる。つまり、変化するのである。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、何かをすることによって、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。さて、心境も感情も情態であるが、心境は、爽快、陰鬱など、深層心理に比較的長期に持続する情態であり、感情は、快感、不快、怒り、哀しみなどの、深層心理が突発的に生みだす情態である。深層心理は、感情を生み出す時は、行動の指令と一体化させて、自我の欲望として、生み出すのである。心境と感情は並び立つことがない。人間は、常に、一つの心境という情態、若しくは、一つの感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、その人自身の心境であり感情である。日常生活において、深層心理は、心を空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境という情態性に影響されて思考しているのである。人間は、心境によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間が得意の心境の状態の時には、深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す場合、現在の状態を維持させるような方向に行うのである。それがルーティーンの生活を形成しているのである。しかし、人間が不得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態から脱却させようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出そうとするが、超自我が、日常生活が破られると判断すれば、それを阻止するのである。そして、やはり、ルーティーンの生活を続けるのである。逆に、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンの生活が壊れそうになった時、すなわち、構造体が壊れたり、構造体から追放されたり、自我が傷付けられたりして、平穏な日常生活が脅かされた時、深層心理は、怒りの感情と暴力や侮辱などの復讐の行動の指令という過激な自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。深層心理は、復讐の行動によって傷付いた自我を回復させようとするのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しみが消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいという心境や感情から逃れるために、苦悩の原因となっている問題を解決しようとするのであり、苦しいという心境や感情から逃れられれば、苦悩の原因となっている問題を解決しようがしまいが、気にならないのである。なぜならば、人間にとって、苦しみの心境や感情から抜け出すことが唯一の目的だからである。つまり、人間にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態が最も重要なのである。しかし、人間は、表層心理では、直接にそれを動かすことができないのである。この課題を解決しない限り、人間は、人間は自我に取り憑かれ、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされ、悪逆非道を繰り返すのである。







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