あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

無意識は言語によって構造化されている。(自我その122)

2019-06-02 21:21:32 | 思想
フランスの心理学者のラカンに、「無意識は言語によって構造化されている。」という言葉がある。ラカンの言う無意識とは、一般的に使われている、無意識の行動と表現されるような、例外的な、臨時的な、一時的な働き方をしているそれではない。ラカンの言う無意識とは、我々は意識していないが、常に、心の奥底で活動している心の動きである。それ故に、ラカンの言う無意識とは、深層心理を意味する。つまり、ラカンは、我々は意識していないが、常に、心の奥底で、深層心理が活動していると言っているのである。人間は、まず、深層心理の活動から始まると言っているのである。人間は、深層心理が思考した結果を、ある時は、表層心理は意識し、ある時は、表層心理は意識しない。この後者の意識しない行動を、一般的に、無意識の行動と呼んでいるのである。それ故に、ラカンの言う無意識は、一般に言われる無意識よりも、範囲が広いのである。そのため、ラカンの言う無意識を、敢えて、深層心理と言い換えたのである。しかし、ラカンの方が正しいのである。なぜならば、先に述べたように、我々は意識していないが、常に、心の奥底には、活動している心の動きがあるからである。しかし、誤解を避けるために、ラカンの言う無意識を、深層心理と言い換えたのである。それ故に、ラカンの言葉も、「深層心理は言語によって構造化されている。」ということになる。それでは、言語によって構造化されているとはどういう意味であろうか。言語によって構造化されているというのは、端的に言えば、考えるという行為である。言語による構造化とは、言語を重ねて論理的に考えを進めていくことなのである。人間誰しも、常に、無意識に、深層心理が言葉を重ねて論理的に思考しているのである。人間は、誰も気付いていないが、深層心理が、常に、言語で(を使って)考えているのである。それ故に、ラカンの言葉を、もっとわかりやすく言えば、「深層心理は、常に、言語で(を使って)考えている。」ということになる。もちろん、深層心理の働きは、無意識のうちの働きであるから、一般に、言われるような意志の指示ではない。深層心理の働きは、意志という表層心理から始まるのではない。しかし、意志無くして、行動は生まれない。すると、深層心理は、表層心理の意志ではなく、別の意志によって動かされていることになる。これが、言わば、人間存在を動かす、生命体の意志なのである。表層心理の意志は、生命体の意志の派生体にしか過ぎない。生命体の意志こそ、本源なのである。ニーチェは、「意志は意志できない。」と言っているが、ニーチェの言う意志こそ、生命体の意志なのである。さて、人間は、生命体の意志を受けて、まず、深層心理の活動、つまり、深層心理による思考から始まるのであるが、この思考形態には、三形態ある。対自化、対他化、共感化である。対自化とは、我々が、物・動物・人間に対した時、それらをどのように利用・支配しようかという観点から考えることである。見る視点と言い換えることができる。対他化とは、我々が、人に出会った時、その人に評価されようと思いつつ、その人が自分をどのように評価しているか考えることである。見られる視点と言い換えることができる。共感化とは、我々が、物・動物・人間に対した時、感動・愛情を覚えたり、感動・愛情の視点で考えたりすることである。自然の風景に感動したり、ペットをいとおしく思ったり、人と友情を交わしたり、愛し合ったりすることである。味方同士の視点、家族愛・愛国心など愛を使った熟語はみなこの部類に属する。見る見られるの視点と言い換えることができ。サルトルが、「人間関係は、見ると見られるの相克であり、見る立場に立った者が勝者である。」と言ったのは、一応は、納得できる。確かに、見る立場は、相手を評価するという、支配者の立場であり、見られる立場は、相手から評価されるという、被支配者の立場であるからである。サルトルの言うことを、最も忠実なのはやくざである。やくざが「眼を付けた。」と因縁を付け、胸ぐらを掴んだりなどして庶民を脅迫するのは、そうすることによって、見られた立場から、見る立場へと、言わば、被支配者から支配者へと、立場の逆転を図ろうとしているのである。しかし、サルトルには、ボーヴォワールという生涯の恋人がいたのだから、共感化の形態、見る見られるの視点に気付かなかったとは考えられない。それとも、灯台もと暗しということなのだろうか。恋人に恵まれなかったニーチェならば、恋愛に関してだけは、共感化の形態、見る見られるの視点に納得できなかったのは想像できる。だから、ニーチェの女性に対しての評価は辛辣である。さて、我々は、物・動物・人間に対した時、まず、深層心理が、対自化・対他化・共感化という三形態の中の一形態を選び、その形態の視点の下で、それの対し方を思考するのである。そして、その思考の結果、ある感情と行動の指針を生み出す。この感情と行動の指針は一体化していて、感情が強いほど、行動への思いも強い。その中で、最も強い感情が怒りである。当然、その行動も過激なものにならざるを得ない。しかし、対自化という形態の見る視点、共感化という形態の見る見られる視点からは、怒りの感情は湧き上がらない。対自化という形態の見る視点からは静謐な感情、共感化という形態の見る見られる視点からは喜びの感情しか湧き上がらない。対他化という形態の見られる視点から、怒りの感情がわき上がるのである。例えば、我々は、他者から侮辱された時、怒りの感情が湧いてくる。それは、怒りの感情とともに、殴れという指令を伴っている。もちろん、怒りの感情も殴れという指令も、自然に湧いてくるのではない。それは、深層心理が、対他化の形態という見られるの視点で、思考した結論なのである。我々は、他者に対した時、深層心理が、対他化という形態で見られるという視点で、その人に評価されようと思いつつ、その人が自分をどのように評価しているかを考えていた時、侮辱されたから、怒りの感情とともに殴れという指令を出したのである。侮辱されたままでいることは、その人の下位に居続けることになるからである。しかし、一般に、人間は、必ずしも、深層心理の指令通りには動かない。そこに、表層心理の意識による審査が行われるからである。表層心理は、深層心理から上ってきた、怒りの感情と殴れという指令に気付き、意識する。表層心理は、殴った後のことを考える。恐らく、周囲から顰蹙を買うだろう、警察に捕まり職場や学校を追われるかも知れない、相手はもっと激しく殴り返すだろうなどと考えて、殴る以外での復讐の方法を考えることになるだろう。しかし、深層心理が強ければ、表層心理が意識して考える前に、若しくは、表層心理が止めても、怒りにまかせてその人を殴ってしまうのである。人間には、深層心理の強い(敏感な)人と弱い(鈍感な)人がいて、それは、深層心理だから、先天的であり、表層心理の意志という範囲の及ばないところにあり、一生、その特徴は消えないのである。犯罪者には、深層心理の強い(敏感な)人が多いが、芸術家にも、深層心理の強い(敏感な)人が多いのである。さて、誰しも、人に対する時、対他化という形態の見られる視点から、その人に、侮辱されると、心が傷付き、怒りの感情を生み出すが、その人に、褒められると、満足し、喜びの感情を生み出す。それでは、人間は、どのようなことを言われると、心が傷付き、満足するのだろう。それは、構造体とステータスによって異なってくるのである。ステータスを自分だとする自我のあり方によって、異なってくるのである。例えば、高校のクラスという構造体がある。そこには、女子高校生と男子高校生というステータスがある。女子高校生は、可愛いと言われると最も満足し、ブスだと言われると最も心が傷付くだろう。しかし、男子高校生は、可愛いと言われても、全面的に満足できないし、ぶおとこだと言われても、女子高校生のブスほどショックを受けない。男子高校生は、カッコイイや頭が良いと言われると誰しも満足し、頭が悪いと言われると最も心が傷付くのである。もちろん、女子高校生は自分が女子高校生であるという自我を持ち、女子高校生という認められたいという自我の欲望を持っているから、可愛いと言われると自我の欲望が満足できるから喜び、ブスだと言われると自我の欲望が破壊されるから最も心が傷付くのである。男子高校生は自分が男子高校生であるという自我を持ち、男子高校生という認められたいという自我の欲望を持っているから、カッコイイや頭が良いと言われると自我の欲望が満足できるから喜び、頭が悪いと言われると自我の欲望が破壊されるから心が傷付くのである。それが、高校のクラブという構造体に行くと、女子高校生も男子高校生も部員というステータスが与えられ、部員という自我を持ち、自我の欲望が満足できることを望む。彼らは、上手な選手だと言われると自我の欲望が満足できるから喜び、下手な選手だと言われると自我の欲望が破壊されるから心が傷付くのである。しかし、可愛いという評価を求める女子高校生の自我の欲望、カッコイイや頭が良いという評価を求める男子高校生の自我の欲望、上手な選手だという評価を求める部員の自我の欲望は、全て。社会という他者から与えられたものなのである。もちろん、彼らは、自ら選んだのだと思い込んでいる。社会という他者から与えられたものを取り込んだことに気がついていないのである。彼らは、無意識のうちに、ラカンの言う、「人は他者の欲望を欲望する。」(人はいつのまにか他者の模倣をしている。人は他者から評価を受けようと行動する。)を体現しているのである。このように、我々にとって、深層心理の役割は非常に大きい。ところが、多くの人は、意志という表層心理に重きを置いている。しかし、表層心理の働きは、深層心理に比べると、二番手の働きをする存在なのである。もっと、自らの深層心理の力・役割・傾向に心を致すべきである。自らの深層心理の大きさに気付いた時、真に、自らの表層心理の役割の重要さにも気付くように思われる。

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