住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

京阪神地区お盆行

2005年08月02日 14時01分25秒 | 様々な出来事について
昨日朝5時半頃お寺を出て、関西6軒のお盆参りに出かけた。新幹線こだまで西明石まで行き、神戸市垂水区に一軒、それから福知山線川西池田に一軒。このお宅では近年ご両親が亡くなられていることもあり、残されたご兄弟がご家族で毎年迎えてくださる。小学生のお子さんたちも般若心経を憶えていて、お参りに行く身にとっては遠くまで来た甲斐のあるありがたいご家族だ。

そこから伊丹まで車で送って下さって、一軒。この辺りでお昼になるので、昼食を取ってから、阪急で梅田に出て、それからJRで京橋へ、京阪電車に乗り換え枚方に2軒。京都府八幡市に1軒。都合6軒のお参りを済ませたのは夕方の5時であった。

それから新大阪へ出て新幹線で、途中岡山乗り換え福山まで戻ったときは、晩の7時半になっていた。毎年のことではあるが、今年で6回目になる京阪神地区のお盆行は正に修行と言えよう。

昔どなたかが、夏のお盆のお参りは僧侶にとっての修行なのだと思って勤めなくてはいけない、そんなことを耳にしたことがある。

ところが、近年東京やら都会では棚行と呼ばれるお盆参りが無くなりつつあるという。お盆期間の決められた日にお寺に位牌を持って出向き、みんなまとめてお経を上げてもらう儀礼に換わられたのだそうだ。それぞれの家に参り、家族の顔を拝見して始めて檀家さんご家族の様子も伺われようというのに、それさえも省略してしまう傾向にある。

昔、駆け出しの頃、四国徳島の大きなお寺のお盆参りを手伝わせていただいたことがある。地図を片手に家を探しつつ、一日に50軒ほども廻ったのだろうか。それぞれの家で祀り方も違ってはいたが、精霊棚にキュウリやナスの刻んだものと器に水が用意され、そうめんや夏野菜が所狭しと御供えされていた。位牌は仏壇から出して棚に祀りそれぞれの前に少しずつの御供えが置かれていた。

そうしてご先祖が帰ってくるのだという気持ちが表れた御供え荘厳の前でお経を唱えていく。そうしてご先祖を思う気持ち、仏事に篤い気持ちをきちんと次の世代に残していっている姿を目にした。お寺に位牌だけ持って行けばお盆が済んだというのではやはりいけないのではないか、そんな気がする。

ところで、この度お参りをした一軒で、親戚の方からこんな質問を受けた。50回忌を忘れていたがどうしたらいいかとのことであった。気になるならお寺さんにご夫婦で出向き簡単にお経を唱えてもらったらいかがですかとお答えした。何も命日までにするに越したことはないが、過ぎてしまったらしてはいけないということもあるまい。すると何か言い淀むところがあったので、つい持論を述べてしまう羽目になった。

別にしなければいけないということではないのですよ、特に50回忌は、33回忌で弔いあげと言って先祖に組み入れるという考え方もありますから。間違えてはいけないのは、しなければ何かある、悪い障りでもあると思うことです。何もありません。

ただ、法事というのは皆さん生きている人たちが幸せでなければ出来ないことでもあるのですから、まずは皆さんが幸せであればいいのです、それが何よりの先祖の供養です。その上で、法事をして善行を施しその功徳を回向すれば、それはその精霊のためにもなるし、ご自分たちのためにもなることなのですなどと長々お話しすることになった。

お寺も亡くなった人のためにあるのではない。お墓のためにお寺があるのでもない。今生きている人たちがより良くあっていただくためにお寺があり、私たち僧侶が居る。生きている人たちが幸せでなければお寺もうまくいかない。檀家さん方が良くあって始めてお寺も繁栄する。ごく当たり前のことなのだが、誤解している人は多いのではないかと思う。

過ぎ去った過去を追うなかれ、いまだ来たらぬ未来を思うなかれ。ただ今、いま為すべきことをなせ。生きとし生けるものが幸せであれ。お釈迦様の教えには時代を超越した真理がある。お釈迦様の言われたことに基づいて考えていれば私たちは迷うこともないはずなのにと改めて思いつつ、新幹線からの夜景を眺めた。
コメント (1)
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