住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

仏教のあるべき姿

2005年08月05日 11時51分44秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教は他の宗教とは違って何かを信じなければいけないということはありません。お釈迦様の生き方に賛同し学び行ずるということだけだと思います。そこから何事かを得て、智慧のある生活をすればよいのだと思います。

本来的には、仏教徒とは、仏、法、僧に帰依したものを言うのですが、ただ帰依するだけで、その中身を知らず、信ずれば救われるというのでは真に仏教徒とは言えません。

昔お釈迦さまの時代にはインドのバラモン教による生活をしている人たちがお釈迦様の教えを信奉し僧団を支えていました。お釈迦様は如来は法を説くだけであると言われ、一人一人の行い、身体で行うことと、言葉と、考えることとが大切であり、各々が教えに従って進むべき道であることを説きました。

仏教であるか無いか、仏教徒であるか無いかなどというのはそんなに大事なことではないのだと思います。より普遍的な人類にとって共通の誰をも幸せに導く教えが仏教の教えだと思います。

昔スリランカの長老から様々教えを乞うていた時期がありました。ある時講演で、なかなか修行が出来にくい人もあり、考えることの好きな人もある。そんな人は自分が何のために生きるか、何のためにするのか、理由を問いつめていくことで悟ることが出来る、そういう道もあるのですと言われたことがありました。

そこで講演の後、それはどのようにすればいいのかともう一歩踏み込んだ内容を聞いてみたのですが、実はそれは恐ろしく難しい、殆どの人が気が狂うほどの果てにしか悟るなんてことはできない。それよりもよっぽどヴィパッサナーというお釈迦様の瞑想法の方が簡単なのだと教えて下さいました。多分つい口を滑らせて言ってしまったことなのでしょう。そんなことをみんなにさせたくて話した訳ではないのだということでした。

ヴッパッサナーは、繊細に見つめることです。自分の行い、感覚、心、世の中の法則真理そんなことの一つ一つを細かく瞑想の中で確認し冷静に観察する瞑想です。その中で智慧が生じていく、智慧の瞑想と言われています。

やっと日本でもこのお釈迦様の瞑想が本格的に伝えられ、実践され始めています。これまでの仏教は何だったのかとさえ思います。ただやみくもに信じることではなく、教えを学び、実践しつつ確認し悟りの心に向かって前進するのが本来の仏教のあるべき姿なのでしょう。

中国化した仏教しかなかった日本に、明治時代に西洋経由でお釈迦様の仏教が入ってきましたが、それは学問の世界のことでしかありませんでした。やっと現代になって、本来のお釈迦様の実践仏教が伝来され、これから普及していくことでしょう。宗教宗派を問わない仏教の実践をより多くの人が行うことによって、争いのない世界に近づくことが出来ますように。生きとし生けるものの幸せを念じたいと思います。
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