住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

縁起ということ

2006年05月05日 13時12分39秒 | 仏教に関する様々なお話
縁起とは、お釈迦さまが悟られてから最初に思惟された最も根本の教えの一つ。ものごとはすべて、よりておこる、ということ。お寺などの沿革、由来を縁起と言うことがある。誰それがどうしてこうして、こうなったという成り立ちを述べるものだ。そういう書き付けを縁起ということもある。

原因があって結果して、それがまた原因となってまた結果するというそのあり方が縁起ということだから、そのような縁起を述べたものだからお寺などの由来を縁起と言うようになったのであろう。辞書にも因縁生起の略とある。

縁起が良いとか悪いというのも、ある兆しがよい結果、もしくは悪い結果を生じさせることが期待される、見込まれるということであろう。受験勉強に精出している子の前ですべったの落ちたのと言うと、縁起でもないからそんなことを言うなという気持ちを起こさせるのも、その言葉を聞いた本人に何かしらの影響があるやもしれないという親心からであろう。

私たちは身体にしても、顔も、心もみんな違う。二人と同じ人はいない。60億もの人がいれば同じ人がいてもよさそうな気もするが、実際は誰とも全く違う。それも縁起ということではないか。誰もがその成り立ちが違うのだから。同じ両親から生まれても皆違う。

たとえ一卵性の双生児であっても違うといわれる。勿論顔も身体も瓜二つに見えるのだが、やっぱり違う。それぞれの歩みが違うのであるから。好みも思いもやることも違うのだから違う結果になって当然だとも言えよう。

顔はその人の履歴書であるということを聞いたことがある。正にその人の歩みそのものだということなのであろう。言葉、振る舞いは育ち、顔は心がそのままあらわれるとも言われる。氏素性よりも大切なのはやはりその人の心ということになろうか。仏教では、身体の行い、口の行い、心の行いの三つを行いとして、三業と言う。

自分の身体と口と心のなした行為の、生まれてからこの方今日にいたる縁起したるものが今のこの自分というものなのであろう。今の思いも、心もみんな縁起してきたものだということになる。顔は心の縁起をあらわすということになるのであろうか。行いの一つ一つも心して行わねばならないことになる。そう考えるとこの縁起という教えは誠に厳しく、恐ろしい世の中の現実を私たちに突きつけるものなのだと言えよう。
コメント (1)
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