住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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はじめて比丘になった人-釋興然和上顕彰4

2006年05月04日 17時09分39秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
興然がインド渡航を本山に申請した明治16年11月には、雲照は久邇宮と小松宮を上首と仰ぐ十善会を創始している。この年の1月に行われた再興第一回の後七日御修法の御守札などを久邇宮朝彦親王の邸を訪ねたとき、雲照は十善戒法が皇室の国を治める要道にして国民道徳の根本であることなどを述べた。すると、殿下は深く感歎なされて雲照に帰依し、毎月殿中で観音供を修せられるようになられたという。

しかしそれもつかの間、十善会の貴顕階層に広まる機運を妬む人々があり久邇宮、小松宮が脱会。かつ宗内僧侶の文明開化の風潮に迎合した破戒無慚なる様はいかんともしがたく、また最大の協力者であった豊山派学僧国上寺大崎行智師の急逝にあい、十善会は中絶止むをえざる状況に追い込まれた。

さらに明治17年2月東寺で宗制会議が開かれると、先の大成会議において雲照が主張し決議された三学主義が覆され教学中心主義の宗制が制定されるに及び、宗団の革新は望み無きことを痛感せられた。

しかしながらこの間に山岡鉄太郎、官報局長青木貞三といった政府要人の中に雲照を理解し援助する人々が現れ、雲照に東京での民衆教化、教導を促した。そして、これにより雲照は明治18年5月真言宗豊山派に属する音羽護国寺住職高城義海の賛助により護国寺薬王院に入る。

そして、山岡、青木の両居士の斡旋で同年11月目白の新長谷寺の住職となり、翌19年修繕のうえ3月に門下4、5人を随え薬王院から移っている。そしてこの頃雲照はインド人の講演を聞きインドの釈尊成道の地ブッダガヤの現状について知る。

またこれより前に、後に興然を後援する外交官林董からも南方の仏教について知識を得ていたであろう。かねて彼の地での戒法について研究する必要を痛感していたこともあり、早速インド渡航を希望していた興然を派遣することとし、本人も快諾する。

林董は、嘉永3年佐倉藩(千葉県北部)の藩医佐藤泰然の子息として生まれているから、興然より一つ年下となる。のち幕府医林洞海の養子となり、幕命で英国に留学。維新の際には函館戦争で捕らえられ津軽藩に預けられたとき青森の寺院で拘留生活を送っている。明治3年赦されて新政府に仕え、明治4年に米国と欧州に出発する岩倉使節団の随員となる。語学に勝れ、この頃から岩倉卿の知恵袋と言われたというから若くして才気を放っていたのであろう。

その後、明治12、3年頃有栖川威人親王が英国に留学された際に同行し、帰路セイロンのコロンボ港に寄港。その時マハームダリという総督秘書官邸に招待された。そこで林董は、「私共の国日本はセイロンと同じように仏教国で、寺も沢山あり、仏教が盛んであります」と述べた。

マハームダリはアジアの東のはてに同じ仏教国があることに喜び、親しみを感じたと言われている。のちに南條文雄に、「貴国の僧侶で正法研究修行の目的で来島する者があるなら出来る限りの便宜を計るであろう」と手紙を書き送っている。

興然が本山にセイロン経由のインド遊学計画をその日程経費まで記していることを考え合わせると、既にこの情報を伝え聞いていたのかも知れない。インド渡航に向けて興然は、林董と交際のあった本願寺の赤松蓮城に渡航手続きを尋ねたり、インドの仏蹟に参詣した北畠道龍を訪ねたりしている。

そして、土宜法龍の勧めで南條文雄を訪ね、指示を仰いでいる。南條は興然のために南方へ赴く心得を説き、梵語の手ほどきをしてくれたという。ここに明治19年9月、ついに興然は横浜港からフランス船に乗り込み、念願の南方仏教受法の旅に出ることになったのである。
コメント (4)
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