住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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はじめて比丘になった人-釋興然和上顕彰5

2006年05月07日 08時20分20秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
ここでしばらく当時のセイロン仏教について記しておこう。はじめてセイロンに仏教が伝わったのは、アショカ王の時代であるから、西暦紀元前3世紀のことになる。王子マヒンダ長老によって所謂根本分裂後の上座部仏教が伝えられ、妹サンガミッタ尼がブッダガヤの聖菩提樹を持って来島した。8世紀の前半頃大乗仏教、特に密教が行われたことを除いて、清純な上座部の仏教教学と戒律を維持してきた。

ところが、16世紀以来ポルトガル、オランダ、そしてイギリスの支配下にあって、政治経済ばかりか精神生活まで変更を余儀なくされた。ポルトガルはカトリックを、オランダはプロテスタントを占領地で強制し、結婚と誕生にはキリスト教の儀式を強い、入信しない者は官吏にもなれなかった。

イギリスは学校教育で聖書を必修とし、改宗しなければ出世できない時代が長く続いた。仏教を捨てキリスト教徒になることで出世し地位を得て指導者になる時代となっていた。しかしここに、一人の勇気ある比丘が現れ、キリスト教に対してたった一人で論争を試みた。

メーゲッワッテ・グナナンダ比丘は、一寺の住職に過ぎなかったが、誰も敢えてしなかったキリスト教に反旗を翻し、その創造説や個人的霊魂の信仰についての独断的神学に対して猛烈な怒りをもって攻撃を繰り返した。

それは島全体に瞬く間に知れ渡ることとなり、1873年(明治6)、コロンボ近郊のパナドゥラでキリスト教と仏教との大論争が行われることとなった。キリスト教側では公開の場で仏教をやっつけてこの際息の根を止めてやろうと論争好きな有力な宣教師を選びグナーナンダと交互に討論した。

ところが、その結果は、迫力と理論において仏教が圧倒的に優勢でキリスト教の敗北と受け取られた。そしてそれは、一国の疲弊した国民感情を一変させるものとなった。この歴史的大論争はグナーナンダ本人が当初思った以上の反響を呼び、遠く欧米にまで知れわたった。

神智学協会のH.Sオルコット大佐とH.Pブラヴァッキー夫人はこのパナドゥラ論争に感銘を受け、1880(明治13)年セイロンにやって来てグナーナンダを礼拝し、仏教を支持、支援している。そして後に興然と行動を共にし、インドの仏教聖地を整備復興するダルマパーラ居士はまだ高校を出たばかりであったが、このとき来島した二人の下に馳せ参じている。

神智学協会は、1875年にロシア生まれのブラヴァッキー夫人と弁護士で南北戦争の退役軍人オルコット大佐が興した神秘思想結社で、人種、階級などに囚われず、比較宗教、哲学、科学の研究を促進し、未知の自然法則と人間の潜在能力の調査研究を目的としていた。

しかしその実体はブラヴァッキー夫人による東洋と古代西洋の秘儀による霊的な智慧を西洋社会に紹介するものであり、純粋な仏教とは相容れるものではない。がしかしその時のセイロンでの活動は、自信を喪失したセイロン仏教徒に仏教徒としての誇りを取り戻させ、同時に社会福祉活動をも展開するものであったという。

この二人の白い仏教支持者に魅せられたダルマパーラは、一時この神智学協会にのめり込んでいる。興然がセイロンに到着する1886年(明治19)には、ダルマパーラはオルコットらとともにセイロン島一周の宣教活動に通訳として従事。彼らはふた月の間、各地でキリスト教によって貶められた仏教を弁護し、その復興を説いて歩いた。そしてこのあと、ダルマパーラは生涯仏教復興にわが身を捧げ献身奉仕することを誓うことになる。
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