住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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はじめて比丘になった人- 釋興然和上顕彰3

2006年05月01日 09時09分41秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
明治12年、再度分派していた真言宗の一宗統制のため大成会議が東京湯島の霊雲寺で開かれた。この会議に叔父雲照は招請され、各派95名の議員の委員長として一宗一管長制と各本山の寺格や宗制などを改正して宗規を厳粛に守ることを決議し、誓約をとりまとめている。

興然は明治14年7月には長野県北部中学林という真言宗学林の教師となっている。明治13年には宗規に従い東京の数ヶ寺に真言宗中学林が設立され、教授雲照の助手として興然も同行しているから、おそらくこの頃の経験の延長として長野にも出向き教師を勤めたのであろう。僧階も中講義に昇進している。

そしてこの後雲照は真言宗の僧侶養成機関の中心として京都東寺境内に総黌を設立し自ら総理として三学主義に基づく教育を開始。教授陣には、高野山の栄厳、隆應、泉涌寺の旭雅、河内延命寺の照遍、豊山智山の管長ら当時最高の学者を配していた。

今でこそ新義古義と真言宗の中が二つに全く分かれているが、この頃はともに一つの真言宗として同じ宗規を用いていたこともあり、興然も方々の中学林で教師をしていたのであろう。そして、川崎大師に教師として来たとき高野山での旧知のよしみで横浜市中区元町の増徳院(震災後南区に移転)に滞在した。

時の住職佐伯妙用に興然は以前から神奈川近辺でしかるべき寺を依頼していたこともあり、妙用が兼務していた神奈川県橘樹郡城郷村鳥山の三会寺を興然に紹介する。三会寺は中本寺格の寺で、32もの末寺を持つ寺ではあったが、焼失した後廃仏毀釈にあいその頃本堂がやっと建ったばかりで、本尊他仏像も砂をかぶり床も天井もなかった。

興然は翌明治15年2月、この終生住職を務める三会寺に34歳で住職している。妙用はこの時茶碗から箸、布団にいたるまで届け、万事に気配りのきく人で当時神奈川県下最高の実力者であったという。

この頃雲照は、諸山の勅会とともに廃止になった宮中後七日御修法再興のため奔走。三条西乗禅、土宜法龍、大崎行智らと宮内省、政府大官に出頭して御修法再興を懇請し、その甲斐あって「御修法の義は寺門に於いて修業致すべき事」との通達を得た。そして、翌16年1月8日より再興第一回後七日御修法が東寺灌頂院にて奉修され、今日に至っている。

そして、興然はこの頃既にインドへの渡航を模索し始めている。明治16年8月にはインド遊学を本山に願い出て、翌17年11月にはスリランカまでの往復とそこからインドへ入り滞在する都合3年2ヶ月余りの経費1.050円を試算し京都にできた総黌の学費から支出してくれるように求めている。

明治4年明治政府は金本位制に基づき1円を金1.5グラムと規定しているから、最近の金相場を1グラム2.500円として換算すると、当時の1円は今の3.750円となる。この計算によれば、興然はこの時総額で今のお金で400万円近い金額を要求していることになる。

ときあたかも西本願寺の島地黙雷が明治6年にインドの地に足を踏み入れ、明治9年に東本願寺の南條文雄らがロンドンに学び、興然がインド遊学を本山に申請した明治16年には、西本願寺の北畠道龍が欧州からインドへ入りベナレスを経てブッダガヤに参詣している。イスラム教徒の侵攻によって荒廃した聖地に建つ大塔の発掘復元作業が正に始まったばかりの頃のことであった。
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