おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

復讐するは我にあり

2023-02-17 07:21:07 | 映画
「復讐するは我にあり」 1979年 日本


監督 今村昌平
出演 緒形拳 三國連太郎 ミヤコ蝶々 倍賞美津子 小川真由美
   清川虹子 殿山泰司 垂水悟郎 絵沢萠子 白川和子 フランキー堺
   北村和夫 菅井きん 河原崎長一郎 加藤嘉 石堂淑朗

ストーリー
日豊本線築橋駅近くで専売公社のタバコ集金に回っていた柴田種次郎(殿山泰司)、馬場大八(垂水悟郎)の惨殺死体が発見され、現金四十一万円余が奪われていた。
かつてタバコ配給に従事した運転手榎津厳(緒形拳)が容疑者として浮かんだ。
榎津は駅裏のバー「麻里」のママ千代子(絵沢萠子)を強姦、アパートに連れこんで関係を強要し続けるなど、捜査員の聞き込んだ評判も悪い。
二ヵ月前までは、ヌードダンサー上りで「金比羅食堂」をやっていた吉里幸子(白川和子)と同棲、母子家庭をガタガタにもした。
数日後、宇高連絡船甲板に幸子と両親宛ての榎津の遺書と、一足のクツが見つかり、投身自殺の形跡があった。
偽装と疑った警官が別府市・鉄論で旅館を営む榎津の実家を訪れると、老父鎮雄(三國連太郎)、病身の母かよ(ミヤコ蝶々)、妻加津子(倍賞美津子)は泣きながら捜査の協力を誓う。
一家は熱心なカトリック信者だが、戦争中、厳は網元をしていた父が軍人に殴られ、無理矢理舟を軍に供出させられた屈辱の現場を目撃して、神と父への信仰を失い、預けられた神学校で盗みを働き、少年刑務所へ送られた。
その後も犯罪と服役を繰り返し、その間に加津子と結婚した。
結婚後、加津子も入信したが、榎津に愛想をつかし離婚、その後、尊敬する義父の懇望に従い再入籍。
榎津は出所する度に父と加津子との仲を疑い、父に斧を振り上げるなど、一家の地獄は続いた。
浜松に現われた榎津は貸席「あさの」に腰をすえ、大学教授と称して静岡大などに出没、警察をあざ笑うような行為を重ねる。
千葉に飛んだ榎津は裁判所、弁護士会館を舞台に老婆(菅井きん)から息子の保釈金をだまし取り、知り合った河島老弁護士(加藤嘉)を殺して金品を奪った。
この頃になると警察史上、最大といわれる捜査網が張り張り巡らされていた。
浜松に戻った榎津の素姓に「あさの」の女主人ハル(小川真由美)やその母、ひさ乃(清川虹子)も気づき始めた。
しかし、榎津に抱かれるハルは「あんたの子を生みたい!」とその関係に溺れ、元殺人犯で競艇狂いのひさ乃も榎津を逃そうとする。
だが、そんな母娘を榎津は絞め殺し、「あさの」の家財を売り飛ばし、電話まで入質して逃亡資金を貯え、七十八日後、九州で捕まるまで詐欺と女関係を繰り返した。
絞首台に上がる直前、最後の面会に来た父に榎津は「おやじ……加津子を抱いてやれ……。人殺しをするならあんたを殺すべきだった」と毒づく。
残された一家にも重い葛藤があった。
死の床にある母は「私も女じゃけえ、お父さんを加津子に渡しとうなか」と言い続けた。
父も地獄のような家を守ってきた嫁が心底かわいく、信仰とのはざまに悩みぬく。
そんな義父を加津子は無性に好きだった。
榎津の処刑後、別府湾を望む丘に、骨壷から、榎津の骨片を空に向って投げる、鎮雄と加津子の姿があった。


寸評
榎津は少年の頃に父親が軍人に逆らえず船を提供したことで弱虫だと嫌悪するようになる。
少年らしい正義感からなのだが、男の理想像を父親に描いているので裏切られた気になったのだろう。
私もちょっとしたことからそのような感情が湧いてしまった苦い経験を有している。
もっとも、だからと言って榎津のような悪事に走るようなことはなかったのだが、榎津は理性も欠如していたのではないだろうか。
大人になった榎津は性欲も強くて、バーのママ千代子やヌードダンサーの幸子と強引に関係を結び、浜松の旅館「あさの」に呼んだ女生とは夜も朝もしつこく関係を迫っている。
榎津は進駐軍から救ってやった加津子と関係を持ち、子供が出来た彼女と結婚するが夫婦関係は破たんする。
ところが老父鎮雄夫の榎津よりも義父に信頼を寄せ、それはやがて愛情に変わっていく。
どうやら肉体関係にまではいっていないようだが、精神的には深く結びついているようで、二人のそのような関係を義母も感じていて、老婆となった義母が「私も女だからお父さんを加津子に渡したくない」とつぶやく場面は変質的な三角関係を示していてゾッとする。

榎津は殺人や詐欺の犯罪を繰り返すが、自分でも言っているように浜松での殺人はよく分からない犯行である。
ひさ乃とハルの親子は、母は元殺人犯で娘は男の二号として体を提供して生活を維持している。
ハルは榎津に初めて男の優しさを感じて関係を深めていく。
榎津の正体を知っても、尚もついていこうとする姿は哀れでさえある。
元殺人犯の母親は「憎い相手を殺したのでスカッとしたが、あんたはスカッとしたか」と問い詰めるが、金銭欲だけで人を殺している榎津には当然そのような感情はない。
榎津はどうしてハルを殺そうと思ったのだろう。
衝動殺人だったのだろうか、榎津にもよくわからない犯行だったようである。
ひどい犯行だったが映画的にはこの浜松での出来事の描き方が非常に面白かった。

タイトルの「復讐するは我にあり」とは榎津のことを言っているようにも思えたが、彼らがクリスチャンであることから、それは「相手から傷つけられても、報復せずに穏やかな心で過ごせ」という教えによるものだろう。
愛する人たちに自分で復讐せず神の怒りに任せ、復讐や報復は神のみが行う行為なのだということであろう。
この作品は肉体と精神、どちらも異常な家族の物語である。
老父鎮雄と加津子は死刑となった榎津の遺灰を高台から撒くが、遺骨は空中に止まったままである。
二人は榎津の存在を消し去ろうとするが、その亡霊は二人から消え去ることはないだろうとの暗示であったと思う。
緒形拳、三國連太郎、倍賞美津子、小川真由美、清川虹子、役者達の演技合戦を見ているようで、出演者も映画の出来栄えにおける重要なファクターであることを痛感させた。



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2 コメント

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読み応えのある映画評ですね (風早真希)
2023-02-17 22:53:26
私の大好きな日本の映画監督・今村昌平の「復讐するは我にあり」について、読み応えのある映画評が書かれていましたので、私の感想を述べてみたいと思います。

この映画は、鬼才・今村昌平監督が描く人間の原罪と魂の救済のドラマでしたね。

この映画「復讐するは我にあり」は、佐木隆三の昭和50年下期の直木賞受賞の小説の映画化作品で、監督は「赤い殺意」、「楢山節考」の日本映画界の鬼才・今村昌平で、彼独特の綿密な調査を足かけ2年を費やして原作の裏をとり、その周辺からのアプローチにて犯人像に迫ろうとしています。

九州、浜松、東京で連続5人を殺害した全国重要指名手配の凶悪犯、榎津巌をこの映画の公開の前年の「鬼畜」(野村芳太郎監督)で、日本映画の各演技賞を総なめにした、名優の緒形拳が魂のこもった熱演をしていて、同じく「鬼畜」の小川真由美が再び共演していますが、とにかくこの二人の俳優は、役の人物に完全になりきり、その感情移入した実在感のある演技は見事の一語に尽きます。

ドキュメンタリー的手法を得意とする今村昌平監督のルポルタージュ形式の描写は、特に映画の前半部分で光っていますが、後半に入ってからの浜松の養鰻場での刑死者の抽象的な挿入や、愛人ハル(小川真由美)の母ひさ乃(清川虹子)を殺害しようとするところで、病身の母かよ(ミヤコ蝶々)と重ね合わせるシーンや、榎津(緒形拳)が憎悪し、その関係を疑っていた父・鎮雄(名優・三國連太郎)と妻・加津子(倍賞美津子)が、刑死した榎津の骨を大分県の別府市の山の上から撒くラストシーン等に現れている幻想的な部分は、なにか演出が浮き上がっているような気がして、やはり、実録に徹した冷たいリアルな演出に徹すべきであったと思います。

また、榎津が生まれた長崎県の五島列島で、太平洋戦争中に海軍から父が漁船を供出させられるシーンは現実的ではありませんし、このシーンが幼い頃の榎津にカトリック信者である父への反逆と抵抗を招き、後の犯罪の遠因になったという解釈をしていますが、その解釈はかなり安易すぎますし、戦時中の事実調査が不足しているような気がします。

ましてや、佐木隆三の原作にはこのような事は全く書かれておらず、このように脚本(馬場当)が、原作と今村監督が意図している実録調をかなり甘くしているように思います。

しかしながら、この脚本と今村監督の演出が浜松のシーンにかなりの重点を置いた事は、個々のシーンに問題点があったとしても、映画全体としては一応、成功していると思います。

榎津が犯した犯罪の原因は、やはり本人の生来の性向であり、社会に適応出来ない、どうにもならない本来的な犯罪人の空虚な内面をそのまま冷徹に、かつリアルに直視すべきだと思います。

今村監督は、「この男の内部は、空洞でしかないのではないか。この男の中に、私はよるべない現代人の魂を見る」と語っていますが、この"精神が空洞な人間の業そのものは、神に係る、昔から変わる事のない不変のテーマ"なのだと思います。

そして、榎津一家が、辺境だが風光明媚で人情にも厚く、ある意味、閉鎖的で土俗的な信心深いキリシタンの五島に住み続けて、大分県の別府へ出なかったならば、このような悲劇は生まれなかったような気がしないでもありません。

「復讐するは我にあり」という、この映画の題名は、原作の冒頭にあるように聖書のロマ書一二・一九に出てくる「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して"主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん"とあり」の言葉からきていますが、そもそも、榎津は誰に復讐をしようとしたのだろうか。

父に、妻に、そして神にだろうか。
しかし、考えてみると、彼が殺害した人々は憎しみの対象ではなく、浜松の親子には、むしろ愛情さえ持っていたように思います。

逮捕されて小倉拘置所で榎津は、「俺あ神様は要らん。俺は罪もなか人たちば殺した。だから殺される。そいで良か。----どうせ殺すならあんたを殺しゃ良かったと思うたい」と父親を睨み付けますが、復讐すべき相手に復讐する事も出来ず、罪のない人々を殺害した彼は、"神の復讐の業"を待たずに自ら刑死して、「後はなあんにもなかよ」という余韻を持たせて映画は幕を閉じます。

しかし、原作で、このモデルとなった死刑囚は、五島の聖歌"オラショ"を唱えて、神に安らぎを求め、また親不幸の重さを知るという事になりますが、それとは全く正反対の脚本の解釈は、もともと、難解で奥深い意味を持つ、原題の「復讐するは我にあり」の理解を、更に困難なものにしているような気がします。

映画を観終えて思った事は、聖書の使徒パウロのローマ人への手紙の一節に、「私は、内に神の律法を認めながら、肢体には別の律法があって、心の法則に対して戦いをいどみ、肢体に存在する罪の法則の中に私をとりこにしているのを見る」というのがありますが、この一節は、人間の原罪というものを象徴的に言い表していますが、我々の心の中にも、肢体の律法に己の身を任せてしまった榎津の姿の中に、変身願望が隠されていて、あらためて"人間の原罪とそこからの魂の救済"について深く考えさせられました。
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映画作家を待望 (館長)
2023-02-18 11:43:48
最近は軽いと感じる監督が多いと感じていて、今村昌平のような重厚な作品を撮る監督の出現を望んでいます。
私は「神々の深き欲望」を彼の最高傑作と思っています。
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