ええ。
本日は画像に注意です。
あまりに衝撃的なため、虫が苦手な方は大きくしないで下さい。
また、虫が好きな方にも、ちょっと心してから開いていただきたい。
私は今日、驚くべき光景を目にしました。
それは夕刻のこと。
現在育てているモンシロチョウの幼虫を何気なく観察し始めたときに目に飛び込んできたのでした。
数日前、蛹になった幼虫の向かい側に陣取って、前蛹化した幼虫の上で.....。
その幼虫は、前蛹化してからまる一日以上経ったにも関わらず、まったく動きを見せず、
「どうしたのだろう?」
と、心配はしていたのです。
本来なら、すでに体を震わせ、蛹への変化を見せているはずなのに.....何の変化もない。
私は注意深く、その幼虫を覗きこみました。
と、何かがうごめくのが目に入り、アゲハのときに続いて、今回も蛹化の現場に立ち会えたのかと一瞬感激しかけました。
しかし、何かがおかしい。
私は飼育箱の蓋を取り外し、明るい場所で、その幼虫を観察することにしました。
すると.....。
なんと驚いたことに、前蛹化した幼虫の両脇に、小さい小さい3ミリほどの幼虫がいる!?
「なんだろう.....新しくまた、葉に付いた卵が孵化したのかな」
はじめはそう考えました。
しかし、激しく動くその小さな2匹の幼虫は、しきりに糸を出し、繭を作る作業を続けていて。
モンシロチョウの幼虫は繭など作らないから、これは違う虫.....。
私は嫌な予感に駆られながら、その小さい虫からモンシロチョウの幼虫を守るべく、彼らを除去し、ゴミ箱へと捨てました。
そして、PCの前に座ってキーボードを叩く作業に没頭したのです。
30分ほどして。
私は再び飼育箱の蓋裏を見ました。
と、なんと、先ほど小さな虫を除去したはずの場所で、またもや何かがうごめいている。
私は再度蓋をはずし、じっとその場所を見つめました。
するとそこには.....。
体を食い破られ前蛹化したまま動かないモンシロチョウの幼虫がいて、次々とその体から、先ほどと同じ小さな虫が出てくるのです。
その光景はあまりに凄まじく、生きるという事が.....
自然界で生き抜くことがどういうことなのかということを如実に、残酷に物語っていました。
その小さな虫の正体はアオムシコマユバチの幼虫。
親虫が蝶の幼虫に産みつけた卵が、宿主の前蛹化を待って、孵化するのだということが後にわかりました。
蝶の幼虫は、鳥に襲われなかったとしても、寄生され、生きぬける者はごく僅か。
自然はそんなに生易しいものではなかったのです。
私は昨日、モンシロチョウの幼虫は小さくてちょっと物足りないようなことを言いました。
飼育箱なら鳥に狙われないから、安心して蝶になって、とも。
しかし、小さな虫たちにとって、敵は鳥だけではなく、生きぬき、無事に子孫を残すことは奇跡にも近い業なのですね。
私はあまりに甘すぎた。
自分で育てている幼虫を、小さな虫に食われてしまったことに腹をたてるなど傲慢すぎる。
彼らとて、生きぬくために、子孫を残すために必死なのだから。
思えば。
私たち人間は毎日、殺し、食べています。
植物の、動物の命の上に成り立たせてもらっている存在なのだから。
小さな虫が、食べるぶんだけ殺すのとは比較にならないくらいに殺し、食べ、捨て、生きている私たち。
この光景を<衝撃的>などという資格は、我々にはないのでしょう。
直接手を下さないだけで、毎日殺している我々には。
最初に見つけた2匹の小さな虫を捨てたことを思い出し、生きてゆくための罪とは違う罪に立ち止まる。
薔薇の汁を吸うからとアブラムシを殺し、血を吸われると痒いからと蚊をこともなげに叩き潰す。
アリが部屋に入ってくるからと巣ごと殲滅する薬を置き、不潔だからとハエを叩き殺す。
もちろん、病気の媒介や、身体的被害を思えば、これは必要なのだけど、我々はあまりにも無意識にそれらの行為をしているような気がする。
一寸の虫にも五分の魂というが、私にとって、この体を食い破られたモンシロチョウの幼虫と、寄生した小さな虫の違いはいったいなんだろう。
今まで退治と称して殺した虫たちとの違いはなんだろう。
今現在。
我が家にいる残り4匹の幼虫のうち(1匹は蛹)、何匹が無事蝶になることが出来るかはわからないけれど.....。
生きていることはそれだけで奇跡。
それは常に奇跡を成し遂げることなく、犠牲となった命の上に成り立っている。
無事に幼虫期を生きぬき、蝶になった者を見送る時。
私は何を思うのでしょう。
モンシロチョウの幼虫から飛び出て、繭の中で眠るもうひとつの神秘を眺め、そう考えずにはいられません。
本日は画像に注意です。
あまりに衝撃的なため、虫が苦手な方は大きくしないで下さい。
また、虫が好きな方にも、ちょっと心してから開いていただきたい。
私は今日、驚くべき光景を目にしました。
それは夕刻のこと。
現在育てているモンシロチョウの幼虫を何気なく観察し始めたときに目に飛び込んできたのでした。
数日前、蛹になった幼虫の向かい側に陣取って、前蛹化した幼虫の上で.....。
その幼虫は、前蛹化してからまる一日以上経ったにも関わらず、まったく動きを見せず、
「どうしたのだろう?」
と、心配はしていたのです。
本来なら、すでに体を震わせ、蛹への変化を見せているはずなのに.....何の変化もない。
私は注意深く、その幼虫を覗きこみました。
と、何かがうごめくのが目に入り、アゲハのときに続いて、今回も蛹化の現場に立ち会えたのかと一瞬感激しかけました。
しかし、何かがおかしい。
私は飼育箱の蓋を取り外し、明るい場所で、その幼虫を観察することにしました。
すると.....。
なんと驚いたことに、前蛹化した幼虫の両脇に、小さい小さい3ミリほどの幼虫がいる!?
「なんだろう.....新しくまた、葉に付いた卵が孵化したのかな」
はじめはそう考えました。
しかし、激しく動くその小さな2匹の幼虫は、しきりに糸を出し、繭を作る作業を続けていて。
モンシロチョウの幼虫は繭など作らないから、これは違う虫.....。
私は嫌な予感に駆られながら、その小さい虫からモンシロチョウの幼虫を守るべく、彼らを除去し、ゴミ箱へと捨てました。
そして、PCの前に座ってキーボードを叩く作業に没頭したのです。
30分ほどして。
私は再び飼育箱の蓋裏を見ました。
と、なんと、先ほど小さな虫を除去したはずの場所で、またもや何かがうごめいている。
私は再度蓋をはずし、じっとその場所を見つめました。
するとそこには.....。
体を食い破られ前蛹化したまま動かないモンシロチョウの幼虫がいて、次々とその体から、先ほどと同じ小さな虫が出てくるのです。
その光景はあまりに凄まじく、生きるという事が.....
自然界で生き抜くことがどういうことなのかということを如実に、残酷に物語っていました。
その小さな虫の正体はアオムシコマユバチの幼虫。
親虫が蝶の幼虫に産みつけた卵が、宿主の前蛹化を待って、孵化するのだということが後にわかりました。
蝶の幼虫は、鳥に襲われなかったとしても、寄生され、生きぬける者はごく僅か。
自然はそんなに生易しいものではなかったのです。
私は昨日、モンシロチョウの幼虫は小さくてちょっと物足りないようなことを言いました。
飼育箱なら鳥に狙われないから、安心して蝶になって、とも。
しかし、小さな虫たちにとって、敵は鳥だけではなく、生きぬき、無事に子孫を残すことは奇跡にも近い業なのですね。
私はあまりに甘すぎた。
自分で育てている幼虫を、小さな虫に食われてしまったことに腹をたてるなど傲慢すぎる。
彼らとて、生きぬくために、子孫を残すために必死なのだから。
思えば。
私たち人間は毎日、殺し、食べています。
植物の、動物の命の上に成り立たせてもらっている存在なのだから。
小さな虫が、食べるぶんだけ殺すのとは比較にならないくらいに殺し、食べ、捨て、生きている私たち。
この光景を<衝撃的>などという資格は、我々にはないのでしょう。
直接手を下さないだけで、毎日殺している我々には。
最初に見つけた2匹の小さな虫を捨てたことを思い出し、生きてゆくための罪とは違う罪に立ち止まる。
薔薇の汁を吸うからとアブラムシを殺し、血を吸われると痒いからと蚊をこともなげに叩き潰す。
アリが部屋に入ってくるからと巣ごと殲滅する薬を置き、不潔だからとハエを叩き殺す。
もちろん、病気の媒介や、身体的被害を思えば、これは必要なのだけど、我々はあまりにも無意識にそれらの行為をしているような気がする。
一寸の虫にも五分の魂というが、私にとって、この体を食い破られたモンシロチョウの幼虫と、寄生した小さな虫の違いはいったいなんだろう。
今まで退治と称して殺した虫たちとの違いはなんだろう。
今現在。
我が家にいる残り4匹の幼虫のうち(1匹は蛹)、何匹が無事蝶になることが出来るかはわからないけれど.....。
生きていることはそれだけで奇跡。
それは常に奇跡を成し遂げることなく、犠牲となった命の上に成り立っている。
無事に幼虫期を生きぬき、蝶になった者を見送る時。
私は何を思うのでしょう。
モンシロチョウの幼虫から飛び出て、繭の中で眠るもうひとつの神秘を眺め、そう考えずにはいられません。
長いこと、食物連鎖の頂点として
君臨してきた人間。
いつか喰われる立場になる日がくるやもしれません。
きっとその頃。
本能というものを忘れ去った人間は、
原始的で合理的な虫の戦略に負けるでしょうが。
昔の漫画には、そういうテーマが多かった。
しかし、今や子供たちは滅多に虫を
触ることもなく、時に目にする理不尽や
(本当は理に叶ってるのだけど)
自然の摂理の厳しさに心を痛める機会も
なくなってしまった。
命が爆発し、束の間それを謳歌できる季節だからこそ、
人も感じるものが多いのかもしれませんね。
「かわいそう」とか、「衝撃的」とか、人間の勝手な価値観から生まれる目線など、自然界では何の意味も持たないのですね。
一方で数多くの種を絶滅させ、一方で感傷に過ぎた行動をとってしまう罪。
アリも芋虫もこの寄生蜂も、ただ自然に生まれ、自然に生きる事を全うしているだけななのに。
人間が自ら捨てたものが、本当は一番美しいものだったり、進化と思い込んでいるものが、本当は退化だったり。
人が、自らの「生物」としての位置をきちんと認識し、謙虚に生きる事をしなければ、いつかきっと...
t-cat様が読まれた漫画のような日がやってくるかもしれないですね。
生きとし生けるもの、
生きていく上でのダイナミズムから
誰もが逃れることはできません。
だから、最後まで生き抜いたものは美しい。
生を全うできるものが少しでも多く、
羽ばたいていきますように。
で、話をまぜかえすようですが、
むかーし読んだマンガで、
宿主を捜した蜂が、
幼虫の替わりに人に卵を産み付ける、つう話を
思い出しましたよ…
読んだのも丁度今頃、夏休みの前頃だったなあ。
必死に逃げているのです。
その体には、数匹のアリがまとわりついていました。芋虫の走る(?)スピードでは、アリたちの動きから逃げることは不可能。
生きながら喰われていくのを、ひどいと思い、一瞬助けようかと思いましたが。
アリにも生きるための餌が必要。
生きる糧を得るため、彼らも必死だった。
人間は進化によって様々な技術や美しいものを手に入れたけど、そのために必死で生きる能力や、研ぎ澄まされた感覚を失った。
せめて「生きていることは奇跡」ということを感謝できるようになっていたいです。