毎日、じめじめ、じめじめ。
まさに梅雨!ですねぇ...
写真は、梅の木に隠れるオナガ。
どこにとまってるか、探せるかな?
法事の席で。
代替わりしたばかりの住職が、神経質に、
「これまでの住職のやり方は間違っていたようですね」と、
その作法やら何やらに、眉を曇らせる。
(亡くなった先代とこの人はあまり縁のない様子)
それが正しいかどうかは知らないが.....
無欲で、のんびりした先代が私は好きだったので、
何かその言い方に違和感をもたざるを得ない。
「そのやり方は違う」「それも間違っている」と、
細かく指示をされるのは、
大らかな宗教観を持っている
(と言われているし、私もそう思う)
我々には、何か合わないような気がする。
むしろ、そこから人々を遠ざけてしまいそうな。
でもやはり、梅雨あってこそ、のあじさいの美しさなような気もする。
ガクアジサイは、確か日本原産だけど、
今植えられているのは、ほとんどが品種改良された西洋あじさいのはず。
ちなみに1860年に江戸へやってきた、英国のプラントハンター、フォーチュンさんは、
「私は世界のいかなる地域においても、
これほど多数の植物が売り物として栽培されているのは見たことがない」と言ったそうですよ。
このフォーチュンさん、江戸に入るのに禁じ手は使うわ、
あじさいとは縁の深いシーボルトさんの植物園にやってきて、
シーボルトさんの留守中に勝手に新しい植物の枝を摘み取るわで、
色んな人を怒らせてしまったみたいですが(笑)
伝統や作法は大事でも、
いかにも声高に、
『実に平和的に、信仰心の元によかれと思ってされていたこと』を、
「間違っている!」というのは、
それこそ違う気がするのだ。
そもそも、自分の家の『宗派』や作法を知り、理解している人間が、
今、この国にどれだけいるのか.....
(まあ、だからこそ神経質になってしまうのかもしれないけど)
とにかく、私には、今度の「担当者」が、
『本社からやってきた社員』に見えて仕方がなかった次第である。
『現場の声を聞いて、臨機応変にやってきた』先代に対して。
これは前に畑で見つけたきのこ。
そうそう、上の写真で引用したフォーチュンさんの言葉やお話は『逝きし世の面影』からですが、
私は、明治7年に来日したフォールズさんという人が見たという、次のくだりが好きです。
「むっつりした顔つきの車夫が、がたのきている人力車の梶棒をおろし、
まるで小学生のように両手をひろげて丈の高い花叢へかけ込んだとき、
私はそれほど驚きもしなかった。 ~中略
彼は~優美な枝を抱えて戻ってきて、それで彼の車を飾った」
江戸は巨大な庭園都市だったそうです。
明治初頭に日本へやってきた、ギメさんという方は、
この国の仏教を、
「感じのよい、心安い、気難しくない、ギリシャ人の宗教に似ていて、
煩わしくない、楽しむことを少しも妨げない宗教だ」
と、見たそうだが。
さて。
普通の人々の間では、
今もそれは変わらないもののような気がするものの、
今回の件では.....
巡礼を「楽しみ」、
寺院に「思いの美しさ」を勝手に感じてきた不謹慎な私には、
何か、久々に心に曇りを感じた、
寺にまつわる出来事だった。
ちなみに、継母の死に際して、
すべてを取り仕切ってくれた弟によれば、
仏壇におさめる御本尊(?)やら何やらは、
「お金を本山に振り込み、確認が取れ次第送られてきた」らしい。
まあ、これも忙しい現代人のスタイルに合わせた、
「大らかさ」なのだと受け取るべきなのだろう。
関連の日記 信ずるものは。