ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

最善の日だって?!

2015-08-18 18:36:18 | 日記
その日その日が一年中の最善の日である。

 エマーソンの言葉。エマーソンは1840年代に活躍したアメリカの思想家らしいが、私は彼のことを知らない。この言葉も知らなかった。にもかかわらず、彼のこの言葉がぐぐっと私の目を引きつけたのは、このところ毎日、私が「あ~あ。こんなのじゃ、最悪だよなあ」とグチをこぼしながら暮らしているからである。
あなただって、同じではないだろうか。リストラにあって失業中のあなた。彼女と諍いをして別れたばかりのあなた。人間ドックを受けたら思いがけず肺がんが見つかり、ステージⅣの告知を受けて間もないあなた。あなたは今日という日を「一年中の最善の日」であると思えるだろうか。
 もっとも、私はあなたのことを知らない。だから(前にもちょっと書いたけれど)私自身のことを書くことにしよう。私は四年ほど前、東日本大震災の前日に脳出血で倒れ、以来、左半身麻痺の後遺症に悩まされている。左足の感覚を失ったので、杖なしには歩けなくなってしまった。杖を使っても転倒の恐怖から極度の緊張を強いられるので、独りでは屋外を歩行することができない。そんなことから、毎日、寝たきりに近い引きこもりの暮らしを続けている。
 
 脳出血で左半身麻痺の後遺症を持つ私は、病院を退院してからというもの、リハビリ施設に通所する週二日を除けば、ほぼ毎日、自宅で、寝たきりに近い引きこもりの暮らしを続けている。発病前の私の趣味は海釣りだったが、そんな他愛もない趣味にうつつを抜かしていた四年前の日々が、今の私には嘘のように思える。退職したこともあって暇を持て余し、自室でパソコンやテレビの画面を眺めながら明け暮らす味気ない一日一日が「最善の日」であるとは私にはどうしても思えない。
 
 いやいや、心構えの問題なのだよ、とエマーソンは言いたいのであろうか。「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」 という徳川家康の言葉のほうが今の私にはしっくりするが、現在の自分がおかれている境遇を重荷と感じるかどうかは、人それぞれ。その人その人の心構え次第なのだ。
 
 思い返してみればよい。発病前の私、片麻痺の身体になる前の私にとって、毎日は「最善の日」だったであろうか。やはり退屈な味気ない毎日で、「それは最善の日だったのか?」と問われれば、残念ながら「いやいや、そうではなかったよなぁ」と答えざるを得ないのではないか。
 
 発病前の私、片麻痺の身体になる前の私にとっても、毎日は決して「最善の日」ではなかった。やはり退屈な味気ない毎日で、「それは最善の日だったのか?」と問われれば、残念ながら「いやいや、そうではなかったよなぁ」と答えざるを得なかっただろう。極端な話、私が五体満足の屈強な身体を持ち、毎日遊び暮らしても困らないだけの財力を持っていたとしても、私は毎日を「最善の日」として肯定する気になれたかどうか怪しいものだ。あり得ないほど恵まれた状況を仮定したとしても、「それは確かだ。そうに違いない」と断言できる自信はない。
 
 ということは、どういうことかというと、逆に考えれば、私が五体満足でなかったとしても、片麻痺の障碍を持っていたとしても、あるいは五体満足なのに週に一度、堤防で釣りをするのがやっとの乏しい財力しか持たなかったとしても、私は一日一日を「最善の日」として是認できるはずだということである。要はやはり心構えの問題なのだ。
 
 とすれば、「一日一日を最善の日として肯定できる心構えは、どうしたら得られるのか?」。
 
 この問いにどう向き合うかが重要であって、私がエマーソンに求めるのもこの問いに対する答えなのだが、彼はその答えを示してくれない。私が不満なのは、そのことである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の分際(その3)

2015-08-15 11:26:45 | 日記
 フクシマの大惨事に象徴される人類の多難な未来を、パスカルは予見していたように思える。人類の行く末についてオプティミスティックな展望をいだいていたとしたら、彼はベーコン張りに、「人間は考える葦であることによって、自然よりも強くなり、やがて自然を支配する」と書いたであろうが、あに図らんや、パスカルはそうは書いていない。
 
 では、彼はどんなふうに書いているのか。
 
 彼が書いているのは、自然の弱者であるただの葦よりも、「考える葦」である人間のほうが「尊い」ということである。
 人間は、自分が自然よりも弱いことを知っているが故に尊い、つまり、自分が自然よりも弱い存在であることの「知」を持つが故に自然よりも尊いというのである。
 なにやらソクラテスの「無知の知」の語りを聞く思いがするが、ここに示されているのは、彼の素朴な価値観の表明である。

 この価値観それ自体を問題にすることはできるであろうが、いまはこの問題にはふれない。
 ただ一つ言えるのは、現在の人類が示すように、人間が宿命ともいえる健忘症に罹って、「自分は自然よりも弱い存在である」という自覚を失い、そういう「知」を失ってしまったら、パスカルには人間はもはや尊い存在とはみなされない、ということである。

 人間を尊い存在とみなす根拠は何か。この問題をめぐるパスカルの見識を、我々はどう受け止めるべきなのか。昨今の状況を見るとき、パスカルの見識は、我々に重い問いを突きつけているように思えて仕方がない。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の分際!?(その2)

2015-08-14 17:17:23 | 日記
「知は力なり」とフランシス・ベーコンは言ったが、これと同様の考えから、「人間は思考することで、天災がもたらす甚大な被害を克服することができる」とパスカルは言いたいのであろうか。
 
  ウィ。イエス。

  こう考えたくなる理由がないわけではない。というのも、人類はその知力を駆使することによって科学技術を発達させてきたが、その歴史は自然の猛威を克服し、自然の荒ぶる力を制御するという意図のもとに進展してきたともいえるからである。
  治水や灌漑の技術は、自然の猛威から身を守るバリアを築こうとする自然対抗の技術だったといってもよい。
  火力をエネルギー源として使用する技の発見によって、人類はバリアの構築を加速度的に進化させ、地球というバリアに囲まれた人工の空間の中で、快適な生活を謳歌するに至った。近代の歴史を一言でいえば、そういうことになる。

 だが現代の我々ーー数年前、大震災によってフクシマの原発事故に見舞われ、大規模な放射能汚染を被って、未だその影響から立ち直れないでいる我々には、「人類は知力によって自然を支配した」というベーコン張りの言葉は虚しく聞こえる。
 人類はエネルギー源を火力から電力に、さらには原子力に求めるに至ったが、この原子力こそ我々に大きな恵みと災厄をもたらしながら、我々の知力ではコントロール不可能な恐るべき魔物であることを、我々は思い知らされたばかりなのだ。
 
 にもかかわらず、早々に国内の原発施設の再稼働を決めたどこかの国は、国民総ぐるみで健忘症か認知症に罹ってしまったのだろう。この決定に反対する国民もいたことを思えば、「国民総ぐるみで」というのはちょっと言い過ぎだが、この反対の声も、結局のところ原発再稼働を阻止する力にはならなかった。
 ともあれ、この健忘症の病原は「自信過剰」という細菌である。そういえば先ごろも、この国の政府のトップが、オリンピックを誘致するために、「フクシマは懸念されるが、海への放射能汚染を、我が国はコントロール下においた」と国際社会に向かって言い放ち、大見得を切るということがあった。この国のトップはさしたる根拠もなく自分の個人的願望を語り、虚勢を張っただけなのだが、もちろんこの楽観的願望はいまだに実現していない。
 「自信過剰」菌のもたらすのがこの程度のファルスで済むのならまだ微笑ましいが、これが第二のフクシマをもたらすとしたら、事は重大である。
 
 フクシマの大惨事をもたらしたものが「知は力なり」というベーコン張りの思想であること、その陰に潜んでいるのが「自信過剰」菌であることを、パスカルは見通していたように思える。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の分際!?

2015-08-13 08:57:12 | 日記
 人間は「考える葦」である。フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが言った言葉として有名だが、この言葉でパスカルが言いたかったのは、どういうことだったのか。このことについて考えてみたい。
 理解の助けになるかもしれないので、まずはこの言葉が語られた前後の文脈を見てみよう。

 彼はこう書いている。

  人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。


 確かに、人間は自然のなかでは極めて弱い存在である。ひとたび台風や火山の噴火や地震があれば、人間などひとたまりもない。大きな自然災害は忘れたころにやってきて、そのことを我々に思い知らせる。

 だが、にもかかわらず人間は「考える葦」であるというのは、一体どういうことなのか。
 「知は力なり」と言ったのはフランシス・ベーコンであるが、このイングランドの哲学者と同様の考えから、「人間は思考することで、天災がもたらす甚大な被害を克服することができる」とパスカルは言いたいのであろうか。
 まずはこの問題について考えてみたい。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独について(その2)

2015-08-09 09:53:13 | 日記
 社会そのものであるような職場の人間関係を離れて、テレビもパソコンもない病室のベッドに独り横たわりながら、私は肩の荷が下りた解放感と安堵感に浸っていた。反面、その私が手持無沙汰や退屈を感じなかったといえば、それは嘘になる。私は暇を持て余し、退屈を感じて、親しい知人と語らうことを夢見た。知人が面会に来てくれることを待ち望んだ。
 けれども実際に知人が病室に現れて、会話を交わしても、私は充足を感じず、自分の期待が外れたことを思い知らされただけだった。私はぐったり疲れただけで、すぐに後悔にとらわれたが、無聊からか、ほどなくその後味の悪さも忘れ、性懲りもなく知人がもう一度、面会に来てくれることを待ち望んだ。
 人間関係を疎んじながらも、それを志向する。人間関係を志向しながらも、それを疎んじる。そんな心理状態を反芻しながら、私はカントの「非社交的社交性」という言葉を思い起こした。カントは述べている。
 
 人間は社会を形成しようとする性向を持つが、しかしこの性向は、また、この社会を絶えず分裂させる恐れのある抵抗といたるところで結びついている。(中略)人間は自分のうちに、社交的性質と同時に、一切を自分の意のままにしようとする非社交的性質をも見出す。
 
 このカントの言葉は、本筋だけでなく、その枝葉の部分でも深いところを突いている。私はそう思う。他者との交わりを疎んじる「非社交的性質」とは、「一切を自分の意のままにしようとする」心性のなせる業なのだ。孤高を望む性質は「優れた精神」の特性などではない。他者を自分の意のままにしたいという気持ちが人一倍強いのに、その能力がないとき、この「優れた精神の持ち主」は、他者との関係それ自体を遠ざけようとし、あるいはそこから遠ざかろうとする。それだけのことである。
 そう思い至ったとき、私はショーペンハウアーの言葉を思い起こし、この言葉におぼえた違和感の正体がわかった気がした。同時に、病院のベッドで感じた自身の安堵の正体も、見えた気がした。
 そんなことを考えながら、過ぎ去った時の流れを思い起こし、私は今、このブログの文章を書き始めている。
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする