一日一日を最善の日として肯定できる心構えは、どうしたら得られるのか?。
私がエマーソンに求めるのはこの問いに対する答えだが、彼はその答えを示してくれない。
もっとも、答えは案外、身近なところに転がっているのかも知れない。趣味の釣りに我を忘れていた時のことを思い起こしてみよう。一つ断言できるのは、堤防近くの地磯で釣糸を垂れているとき、釣行前夜にあれこれと工夫を凝らしながら仕掛けを作っているとき、私は「今は最善の時か?」などと問わなかったということである。したがってそういう時には、「今は最善の時ではない」などとも私は考えなかった。
こういうこともある。マズメ時の間際、赤い夕陽が海の向こうにキラキラと輝きを放ちながら沈んでゆくのを見て、私は「いいなぁ~」とつぶやきをもらしたことがある。そんな時には、私は生の充溢を実感し、釣果などは度外視して、その一瞬を全肯定していたに違いないのだ。
釣りに行けなくなった私が、そういう瞬間を味わうことは意外と簡単なことなのかも知れない。私は今、独り自室のパソコンに向かい、ブログのこの文章を書いている。有り余っているかに思えた時間も、こういう時には短すぎるように思える。キーボードをたたく右手の五本の指は幸い健在である。
片手でキーボードをたたきながら、私は今、一つの言葉を思い出す。
今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、 理由は一つしかない。 自分が持っていないもののことを考えているからだ。 喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。
これはアントニー・デ・メロの言葉である。(つづく)
私がエマーソンに求めるのはこの問いに対する答えだが、彼はその答えを示してくれない。
もっとも、答えは案外、身近なところに転がっているのかも知れない。趣味の釣りに我を忘れていた時のことを思い起こしてみよう。一つ断言できるのは、堤防近くの地磯で釣糸を垂れているとき、釣行前夜にあれこれと工夫を凝らしながら仕掛けを作っているとき、私は「今は最善の時か?」などと問わなかったということである。したがってそういう時には、「今は最善の時ではない」などとも私は考えなかった。
こういうこともある。マズメ時の間際、赤い夕陽が海の向こうにキラキラと輝きを放ちながら沈んでゆくのを見て、私は「いいなぁ~」とつぶやきをもらしたことがある。そんな時には、私は生の充溢を実感し、釣果などは度外視して、その一瞬を全肯定していたに違いないのだ。
釣りに行けなくなった私が、そういう瞬間を味わうことは意外と簡単なことなのかも知れない。私は今、独り自室のパソコンに向かい、ブログのこの文章を書いている。有り余っているかに思えた時間も、こういう時には短すぎるように思える。キーボードをたたく右手の五本の指は幸い健在である。
片手でキーボードをたたきながら、私は今、一つの言葉を思い出す。
今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、 理由は一つしかない。 自分が持っていないもののことを考えているからだ。 喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。
これはアントニー・デ・メロの言葉である。(つづく)