ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

孤独について(その2)

2015-08-09 09:53:13 | 日記
 社会そのものであるような職場の人間関係を離れて、テレビもパソコンもない病室のベッドに独り横たわりながら、私は肩の荷が下りた解放感と安堵感に浸っていた。反面、その私が手持無沙汰や退屈を感じなかったといえば、それは嘘になる。私は暇を持て余し、退屈を感じて、親しい知人と語らうことを夢見た。知人が面会に来てくれることを待ち望んだ。
 けれども実際に知人が病室に現れて、会話を交わしても、私は充足を感じず、自分の期待が外れたことを思い知らされただけだった。私はぐったり疲れただけで、すぐに後悔にとらわれたが、無聊からか、ほどなくその後味の悪さも忘れ、性懲りもなく知人がもう一度、面会に来てくれることを待ち望んだ。
 人間関係を疎んじながらも、それを志向する。人間関係を志向しながらも、それを疎んじる。そんな心理状態を反芻しながら、私はカントの「非社交的社交性」という言葉を思い起こした。カントは述べている。
 
 人間は社会を形成しようとする性向を持つが、しかしこの性向は、また、この社会を絶えず分裂させる恐れのある抵抗といたるところで結びついている。(中略)人間は自分のうちに、社交的性質と同時に、一切を自分の意のままにしようとする非社交的性質をも見出す。
 
 このカントの言葉は、本筋だけでなく、その枝葉の部分でも深いところを突いている。私はそう思う。他者との交わりを疎んじる「非社交的性質」とは、「一切を自分の意のままにしようとする」心性のなせる業なのだ。孤高を望む性質は「優れた精神」の特性などではない。他者を自分の意のままにしたいという気持ちが人一倍強いのに、その能力がないとき、この「優れた精神の持ち主」は、他者との関係それ自体を遠ざけようとし、あるいはそこから遠ざかろうとする。それだけのことである。
 そう思い至ったとき、私はショーペンハウアーの言葉を思い起こし、この言葉におぼえた違和感の正体がわかった気がした。同時に、病院のベッドで感じた自身の安堵の正体も、見えた気がした。
 そんなことを考えながら、過ぎ去った時の流れを思い起こし、私は今、このブログの文章を書き始めている。
 
コメント (1)
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