ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

正しいイバラキ弁

2019-12-15 12:57:31 | 日記
現在、私が週に2回通うリハビリ・デイサは、今年4月に開所したばかりの新しい介護施設である。サポート・スタッフのA子さんは開設当初からの古株であり、最近では「お局様」などと呼ばれるようになった。なのに彼女は、マンネリに堕することなく、就職したての女子学生か、採りたての野菜のように謙虚で、フレッシュきわまりない。それだけではない。彼女は心優しく、気配りが行き届き、そして底抜けに明るいのだ。「この仕事はA子さんの天職だね」といったら、A子さんは「あ、なんだ、転職のことかと思いましたョ」と言って笑った。私は「天職=A子さんの天性に最も合った職業」という意味で言ったのだが、私の発音(アクセント)が悪かったせいかも知れない。ごめんよ。

さてそのA子さんは、地元出身のお年寄りを相手にするときには、地元のイバラキ弁で応対する。そのイバラキ弁がどことなく不自然でぎこちないので、「きみはホントに茨城で生まれ育ったの?」と訊いたら、「どうしてですか?」と訊き返すので「きみのイバラキ弁は正しいイバラキ弁ではないと思うよ」と答えた。

A子さんが言うには、たしかに自分は茨城で生まれ育ったのだけれど、両親が茨城の人ではないので、イバラキ弁には馴染みがなく、上手くイバラキ弁がしゃべれないのだという。

私はといえば、自慢ではないが、正しい?イバラキ弁と、怪しげな標準語とのバイリンガルである。私は茨城で生まれ育ち、高校まで茨城育ちの同級生に混じって過ごした。だから「正しいイバラキ弁」をしゃべることができるのである。

カルチャー・ショックを受けたのは、東京の大学に入って早々のことだった。当然だと信じて疑わなかったイバラキ弁の訛りを、ヘンだ、ヘンだと同級生たちにからかわれ、恥ずかしいので訛りの修正を余儀なくされた。

最後まで苦労したのは、標準的なアクセントの体得である。イバラキ弁は無アクセントを特色とする。私は「アクセント」という概念を知らずに育った。東京の有名私立中学校では、入学試験の問題にアクセントに関する問題を出すらしいが、これは(私のような無アクセント県の出身者を選別する)悪しきスクリーニングの企て以外の何ものでもない。

私は今でも「怪しげな標準語」のしゃべり手だが、それは、こうしたアクセントの体得が未だに中途半端だからである。そんな私だから、私が今でも「正しいイバラキ弁」のしゃべり手でいることができているかどうかすら怪しいものだが、たとえ私が「正しいイバラキ弁」をしゃべれなくなっていたとしても、耳のほうは健在である。私は耳に入ってくるイバラキ弁が正しいかどうかの聞き分けには、憚りながら自信がある。

その私からすれば、A子さん、きみのイバラキ弁は正しくない。「正しいイバラキ弁を話さなければ駄目だよ」と言ったら、きみは「どうも済みません」と真顔で謝ったが、もちろんこれは冗談、冗談である。そんなごど、冗談に決まってっぺよ。
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