おはようございます!
今日から一週間は、天気が悪いとか。
もう、すっかりつゆですね。
週末も雨かぁ・・・。
仕方ないですねー。
ま、こういう時は、自転車以外のことで、
週末を楽しむだけですかね!
ま、ゆるやかな気持ちで、楽しめればいいわけですから、
打つ手は無限にありますね!
さて、今日は金曜日の自由論考の日、ということで、何を論考しようかなあ、と考えていたのですが、
最近、「龍馬伝」の龍馬がつまらない!と感じられているので、
「んじゃ、史実の龍馬のおもしろさって、何?」
という考えが、浮かんだので、史実の龍馬のおもしろさ、について、論考してみましょうか!
いやあ、どんな結論になるのか、全然わかりませんけど、まあ、楽しくやってみましょうか!
というわけで、冷たいバヤリース・マンゴーをぐびびと飲んでゆるゆると論考に入っていきましょう!
さて、史実の龍馬と言えば、薩長連合を後押しし、大政奉還を献策し、自分の海運業を海援隊として進めた人物として、
知られています。ま、このひとのおもしろさ、っていうのは、規範にとらわれずに、事実だけを求めた、ということなんですね。
史実の龍馬は、論考者です。事実を引き寄せるべく、いろいろと論考した人間なんです。
江戸東京博物館で、開かれていた「龍馬伝」展で、いろいろな龍馬の書簡を見ましたが、彼は、書簡を書くことで、
自分の考えをまとめているわけです。つまり、龍馬にとって、書簡を書くことは、自分の考えを進めることでも、
あったんですね。書簡を書きながら、どうやったら、望みの事実を引き寄せられるか、考えていた。
そこで、考えをまとめることによって、少しずつ事実を引き寄せていった人物なんですよね。
よく、龍馬のすごさ的な話として語られるのは、最初に龍馬に会ったときは、千葉道場の塾頭だった。
次に会ったときは、ブーツを穿いていた。そして、次に会ったときは拳銃を持っていた。
そして、最後に会った時は、
「これからは、これじゃ」
と言って万国公法をもっていた、というあたりですかね。
これ、こういうストーリーを龍馬がつむいだのには、わけがあって、彼が頭がよかったとか、先見の明があった、
というわけではなく、彼が精一杯事実を引き寄せようとがんばっているから、結局、いろいろな経験を
誰もしたことが無いような経験を龍馬がして、そこから、新しい着想がわく、ということを現しているんですね。
確か拳銃は高杉晋作から送られたモノですけど、彼は幕吏に追われる身になってしまったから、
高杉がその身を心配して、拳銃を送ったわけです。まあ、幕吏に追われる身なんて、
要は、自分の海運業のために、幕府はつぶすべき、と論考して、その事実を引き寄せようと、
いろいろやったおかげで、そうなっちゃったわけですから、結局、彼自身がその事実を引き寄せているわけです。
万国公法も、紀州藩の船と海援隊所属の船が、衝突したおかげで、訴訟になったから、万国公法を使って
訴訟に勝利した、ということがあったから、龍馬は、万国公法を持っていたわけで、
すべて経験からくることなんですね。それも、元々万国公法を知っていたわけではなく、
この訴訟を勝つには、万国公法を利用したほうがいい、という話をしてくれた誰かがいたから、
訴訟に勝つ、という事実のために利用したに、過ぎないんですね。
万国公法を知っているから、素晴らしい、という評価ではなく、
龍馬というのは、そういう訴訟に勝つ!という事実を引き寄せるためには、何でも使ったというところに、価値があるわけです。
これ、非常に信長との相似性を指摘できるところで、論考者というのは、事実を引き寄せるために、
なんでもやりますから、結果、事実を引き寄せるという現実を引き寄せるんですね。
信長も、そういう意味では、同じで、日本を平和にするためには、どうしたらよいか・・・というところから論考に入った信長は、
事実を引き寄せるために何でもやって、新しい着想、鉄甲船だったり、つねに勝てるいくさをしたり、
斬新な人間として、僕らの目にうつるわけですが、別に天才だったわけじゃないんです。
敵に勝つためには、どうしたらいいか、
を論考しぬけば、普通に燃えない船をつくればいいじゃん!
あ、じゃあ、鉄を船の防御に使えばいいじゃん!
という風に着想がわく、というわけで、それが普通なんですよ。
勝つためには、敵より兵力を多くすればよい、特に尾張兵は弱いから、敵の3倍くらいあれば、
勝てるかな、と論考して、それを実際に、やっているから、勝てる、ということで、
いくさというのは、いくさにゆく準備の段階で、結果は決まっているものなんですね。
そういう風に事実を引き寄せることに、熱心に論考したから、信長も龍馬も、やり方も自由に、事実を引き寄せることができたんですね。
船中八策についても、別にその元となる考えを提出した人間がいるわけです。
ただ、それだけではだめだった。
それをうまくアレンジし、新政府の要職になる人間に龍馬が提示したから、それが、実際に使われたわけで、そこに龍馬の功があるわけです。
事実として引き寄せるにはどうすべきか。
これが、論考者の考えることなんです。
ただ、アイデアを出しただけでは、だめなんです。それが実施されるには、どうしたら、できるか。
そこを、考えて実行できるのが、論考者なんですね。
龍馬は、そういう部分に長けていた。だから、多くの事実を現実にしたんです。
例えば、薩長同盟だって、この雄藩二藩が手を組めば、幕府を倒せるということは、当時の人間は、誰でもわかっていたと思うんです。
でも、それを実際に行ったのは、龍馬だった。
龍馬は、それを実現するために、あらゆる手をうった。だからこそ、龍馬に価値があるのです。
結局、人間の評価とは、何を成し遂げたか、につきるわけです。
求める事実を引き寄せたか、引き寄せなかったか、それにつきるわけなんですね。
僕は人間とは、やったもん勝ちだと思っています。
人間として生きているなら、自分を信じ、大きく世間に踏み出すべきだと考えています。
そして、自分の望む事実を引き寄せてこそ、回りから評価を得られるのだ、と思っています。
そういう人生を歩んだ人間が、龍馬であり、信長だったのだ、と改めて思うんですね。
ただ、論考者というのは、突出していきます。
だから、結局、悪目立ちもするし、論考者の深い考えに及ばない人間達によって、殺されてしまったりするわけです。
論考者の価値のわからない人間によって殺されてしまうわけです。
だから、龍馬と信長というこの論考者二人は、多くの点で、相似性を指摘できるわけです。
二人とも暗殺された、という事実をみたとき、僕らは論考者の悲劇性を感じることになるわけです。
信長は、光秀によって、
「あ、信長様は、天皇を殺すつもりだ」
と誤解されて殺されました。
信長は、天皇を、利用しまくるつもりで、安土城下に、天皇の御座所である大極殿まで、作っているというのに、
物事のわからない馬鹿が、カン違いしたんですね。
日本人のこころの中心にあったのは、それまで、天皇でしたから。
それに、手をつけた人間は、すべて殺されています。日本の歴史では。
だから、信長も殺されてしまったわけです。誤解された上で。
龍馬は、利害の異なる人間に殺されたのでしょう。
彼が生きていては、自分らが実現しようとしている事実がじゃまされると感じた、人間に。
まあ、薩摩の西郷愛の人間でしょうね。
西郷や大久保は、龍馬の人間的価値を知っていますから、その下にいる、人間の価値のわからない馬鹿が、命令したと考えますね。
それが、龍馬の死につながった。そう僕は考えています。
結局、龍馬のおもしろさ、とは、事実を引き寄せるために、規範に捕らわれず、行動し、そして、多くの事実を引き寄せた、というところなんでしょうね。
そのストーリーがおもしろい。あらゆる手段をつかい、シビアに事実を引き寄せていく、そのストーリーがおもしろいのだと思います。
今の「龍馬伝」の龍馬には、そういうところが、あまり描かれていない。
だいたい、龍馬が主体的になにかをやったというストーリーがあまりない。
だから、つまらないんでしょうね。
人間は、やったもん勝ち。
この言葉は、僕の座右の銘でもあります。
だから、僕はずんどこいろいろな施策を講じて、望みの事実を引き寄せて行きたいと思います。
論考者は、望みの事実を引き寄せる。
僕もずんどこ事実を引き寄せて、しあわせになっていきたいと思います。
と、なんだか、結論は、自分のしあわせ宣言みたいなってしまいましたが、
まあ、「龍馬伝」の龍馬が、なぜ、つまらないか、も、論考できたようですね。
そういうストーリーが後半描かれるのかもしれませんが、今はちょっとねえって感じです。
ま、あまり深く考えず、ただのドラマなんだから・・・といなしていきますかね。
さて、今日もここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
また、次回、月曜日の歌詞論考で、お会いしましょう。
ではでは。
今日から一週間は、天気が悪いとか。
もう、すっかりつゆですね。
週末も雨かぁ・・・。
仕方ないですねー。
ま、こういう時は、自転車以外のことで、
週末を楽しむだけですかね!
ま、ゆるやかな気持ちで、楽しめればいいわけですから、
打つ手は無限にありますね!
さて、今日は金曜日の自由論考の日、ということで、何を論考しようかなあ、と考えていたのですが、
最近、「龍馬伝」の龍馬がつまらない!と感じられているので、
「んじゃ、史実の龍馬のおもしろさって、何?」
という考えが、浮かんだので、史実の龍馬のおもしろさ、について、論考してみましょうか!
いやあ、どんな結論になるのか、全然わかりませんけど、まあ、楽しくやってみましょうか!
というわけで、冷たいバヤリース・マンゴーをぐびびと飲んでゆるゆると論考に入っていきましょう!
さて、史実の龍馬と言えば、薩長連合を後押しし、大政奉還を献策し、自分の海運業を海援隊として進めた人物として、
知られています。ま、このひとのおもしろさ、っていうのは、規範にとらわれずに、事実だけを求めた、ということなんですね。
史実の龍馬は、論考者です。事実を引き寄せるべく、いろいろと論考した人間なんです。
江戸東京博物館で、開かれていた「龍馬伝」展で、いろいろな龍馬の書簡を見ましたが、彼は、書簡を書くことで、
自分の考えをまとめているわけです。つまり、龍馬にとって、書簡を書くことは、自分の考えを進めることでも、
あったんですね。書簡を書きながら、どうやったら、望みの事実を引き寄せられるか、考えていた。
そこで、考えをまとめることによって、少しずつ事実を引き寄せていった人物なんですよね。
よく、龍馬のすごさ的な話として語られるのは、最初に龍馬に会ったときは、千葉道場の塾頭だった。
次に会ったときは、ブーツを穿いていた。そして、次に会ったときは拳銃を持っていた。
そして、最後に会った時は、
「これからは、これじゃ」
と言って万国公法をもっていた、というあたりですかね。
これ、こういうストーリーを龍馬がつむいだのには、わけがあって、彼が頭がよかったとか、先見の明があった、
というわけではなく、彼が精一杯事実を引き寄せようとがんばっているから、結局、いろいろな経験を
誰もしたことが無いような経験を龍馬がして、そこから、新しい着想がわく、ということを現しているんですね。
確か拳銃は高杉晋作から送られたモノですけど、彼は幕吏に追われる身になってしまったから、
高杉がその身を心配して、拳銃を送ったわけです。まあ、幕吏に追われる身なんて、
要は、自分の海運業のために、幕府はつぶすべき、と論考して、その事実を引き寄せようと、
いろいろやったおかげで、そうなっちゃったわけですから、結局、彼自身がその事実を引き寄せているわけです。
万国公法も、紀州藩の船と海援隊所属の船が、衝突したおかげで、訴訟になったから、万国公法を使って
訴訟に勝利した、ということがあったから、龍馬は、万国公法を持っていたわけで、
すべて経験からくることなんですね。それも、元々万国公法を知っていたわけではなく、
この訴訟を勝つには、万国公法を利用したほうがいい、という話をしてくれた誰かがいたから、
訴訟に勝つ、という事実のために利用したに、過ぎないんですね。
万国公法を知っているから、素晴らしい、という評価ではなく、
龍馬というのは、そういう訴訟に勝つ!という事実を引き寄せるためには、何でも使ったというところに、価値があるわけです。
これ、非常に信長との相似性を指摘できるところで、論考者というのは、事実を引き寄せるために、
なんでもやりますから、結果、事実を引き寄せるという現実を引き寄せるんですね。
信長も、そういう意味では、同じで、日本を平和にするためには、どうしたらよいか・・・というところから論考に入った信長は、
事実を引き寄せるために何でもやって、新しい着想、鉄甲船だったり、つねに勝てるいくさをしたり、
斬新な人間として、僕らの目にうつるわけですが、別に天才だったわけじゃないんです。
敵に勝つためには、どうしたらいいか、
を論考しぬけば、普通に燃えない船をつくればいいじゃん!
あ、じゃあ、鉄を船の防御に使えばいいじゃん!
という風に着想がわく、というわけで、それが普通なんですよ。
勝つためには、敵より兵力を多くすればよい、特に尾張兵は弱いから、敵の3倍くらいあれば、
勝てるかな、と論考して、それを実際に、やっているから、勝てる、ということで、
いくさというのは、いくさにゆく準備の段階で、結果は決まっているものなんですね。
そういう風に事実を引き寄せることに、熱心に論考したから、信長も龍馬も、やり方も自由に、事実を引き寄せることができたんですね。
船中八策についても、別にその元となる考えを提出した人間がいるわけです。
ただ、それだけではだめだった。
それをうまくアレンジし、新政府の要職になる人間に龍馬が提示したから、それが、実際に使われたわけで、そこに龍馬の功があるわけです。
事実として引き寄せるにはどうすべきか。
これが、論考者の考えることなんです。
ただ、アイデアを出しただけでは、だめなんです。それが実施されるには、どうしたら、できるか。
そこを、考えて実行できるのが、論考者なんですね。
龍馬は、そういう部分に長けていた。だから、多くの事実を現実にしたんです。
例えば、薩長同盟だって、この雄藩二藩が手を組めば、幕府を倒せるということは、当時の人間は、誰でもわかっていたと思うんです。
でも、それを実際に行ったのは、龍馬だった。
龍馬は、それを実現するために、あらゆる手をうった。だからこそ、龍馬に価値があるのです。
結局、人間の評価とは、何を成し遂げたか、につきるわけです。
求める事実を引き寄せたか、引き寄せなかったか、それにつきるわけなんですね。
僕は人間とは、やったもん勝ちだと思っています。
人間として生きているなら、自分を信じ、大きく世間に踏み出すべきだと考えています。
そして、自分の望む事実を引き寄せてこそ、回りから評価を得られるのだ、と思っています。
そういう人生を歩んだ人間が、龍馬であり、信長だったのだ、と改めて思うんですね。
ただ、論考者というのは、突出していきます。
だから、結局、悪目立ちもするし、論考者の深い考えに及ばない人間達によって、殺されてしまったりするわけです。
論考者の価値のわからない人間によって殺されてしまうわけです。
だから、龍馬と信長というこの論考者二人は、多くの点で、相似性を指摘できるわけです。
二人とも暗殺された、という事実をみたとき、僕らは論考者の悲劇性を感じることになるわけです。
信長は、光秀によって、
「あ、信長様は、天皇を殺すつもりだ」
と誤解されて殺されました。
信長は、天皇を、利用しまくるつもりで、安土城下に、天皇の御座所である大極殿まで、作っているというのに、
物事のわからない馬鹿が、カン違いしたんですね。
日本人のこころの中心にあったのは、それまで、天皇でしたから。
それに、手をつけた人間は、すべて殺されています。日本の歴史では。
だから、信長も殺されてしまったわけです。誤解された上で。
龍馬は、利害の異なる人間に殺されたのでしょう。
彼が生きていては、自分らが実現しようとしている事実がじゃまされると感じた、人間に。
まあ、薩摩の西郷愛の人間でしょうね。
西郷や大久保は、龍馬の人間的価値を知っていますから、その下にいる、人間の価値のわからない馬鹿が、命令したと考えますね。
それが、龍馬の死につながった。そう僕は考えています。
結局、龍馬のおもしろさ、とは、事実を引き寄せるために、規範に捕らわれず、行動し、そして、多くの事実を引き寄せた、というところなんでしょうね。
そのストーリーがおもしろい。あらゆる手段をつかい、シビアに事実を引き寄せていく、そのストーリーがおもしろいのだと思います。
今の「龍馬伝」の龍馬には、そういうところが、あまり描かれていない。
だいたい、龍馬が主体的になにかをやったというストーリーがあまりない。
だから、つまらないんでしょうね。
人間は、やったもん勝ち。
この言葉は、僕の座右の銘でもあります。
だから、僕はずんどこいろいろな施策を講じて、望みの事実を引き寄せて行きたいと思います。
論考者は、望みの事実を引き寄せる。
僕もずんどこ事実を引き寄せて、しあわせになっていきたいと思います。
と、なんだか、結論は、自分のしあわせ宣言みたいなってしまいましたが、
まあ、「龍馬伝」の龍馬が、なぜ、つまらないか、も、論考できたようですね。
そういうストーリーが後半描かれるのかもしれませんが、今はちょっとねえって感じです。
ま、あまり深く考えず、ただのドラマなんだから・・・といなしていきますかね。
さて、今日もここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
また、次回、月曜日の歌詞論考で、お会いしましょう。
ではでは。