おはようございます!
今日は、最高温度が6度にしかならないそうで!
もう、春なんですよ!
菜種梅雨だかなんだか知らないけど、いい加減春らしい天候になってほしいですね!
もう!ということで、
ずずっと熱い紅茶で脳みそを起こしております(笑)。
まあ、この論考シリーズもいろいろな結論が出てきて、それらが示唆に富んでいるので、その先の話も続けたい想いもあるのですが、
今日から普通に戻り、ちょっと信長について話をしていきましょうか。
日本人と神、というテーマを基本に考えながら、信長は日本人に何をしてくれたのか?
というあたりを論考してみましょうかね。
では、ゆるゆる~と始めてまいりましょう!
さて、信長というひとは、「フルタイム論考者だ!」ということになりましたが、
そのために、いろいろ独特な結論の元、その行動は過激になっています。
フルタイム論考の末に、彼には結論がもたされるわけですから、
周りの人間がついて行けないのも、あたりまえ!なわけです。
そのひとつに、伊勢長島の虐殺!というものがあります。
元々伊勢長島というのは、一向一揆の集まりで、これをどうにかしようと、兵を出した信長は、
散々な目に会い、有力武将を戦死させたりしました。
それに激怒した信長は、彼らを「なで斬り」することにしたのです。
戦力を整え、準備万端整えた信長は、
「現世利益を放棄し、ただの兵士として宗教に協力し死を求める奴ばらは、すでに人間ではない。
そして、その血も後世に残すべきではない!」
という結論をフルタイム論考の末にだしていた!と考えられます。
伊勢長島の一向一揆は、こうして、全員虐殺という方針で討ち取られます。
まあ、信長のやったことの中でも、むごい仕打ちとして、今に伝えられ、いろいろな物語がつむがれています。
しかし、同じ論考者として、信長を見たとき、やはり、そういう結論を信長が出していた!
という本質を見るべきだ、と思います。
そして、おもしろいのは、血という概念です。これは、いわゆるDNAと同義になるのです。
昔のひとは、経験的に、血を残すことが、どういうことか、わかっていたのです。
そう。僕がDNAにこだわるのと、同じ感覚を古来のひとは、経験的に知っていたのです。
この信長が出した結論を僕は支持します。
日本人の美学がこわれた人間のDNAを残すべきでない。いや、それ以上に、信長は自分が悪魔と呼ばれようと、
魔王と呼ばれようと、断固として、フルタイム論考の末にでた結論を支持し、実行したということでしょう。
彼の行き方は、示唆に富んでいます。
彼の行き方をみれば、彼がいろいろな結論を得ていたことがわかるし、
それこそ、人間が生きる上で、得る貴重な結論というものが、後世でも、わかるからです。
それに対して、論考できない、他人を感情でしか見れないアホ!というものが存在します。
これは、井沢元彦氏の著書にある藤沢周平氏批判の話になるわけですが、
藤沢周平は、織田信長が
「ひとを殺すことに喜びを得て居る節がある」
として、嫌いだ!という文章を書いています。
そして、そのことを
「低次元でひとを見て、好き嫌いを文章化するのは、作家として行う姿勢ではないだろう!」
と井沢氏が批判しているのです。
僕は作家というものは、読者に物語を提供するわけですから、読者へ誤解を与えてはいけない!存在だ!と思っています。
そういう人間が、単なる好き嫌いレベルで文章を書き、要はタニクサをやってるわけですからね、
あほうんこくそ馬鹿!だなあ、と思います。まあ、史上最低の下種!なわけです。
それに、レベルがあほうんこくそ馬鹿より低い。
普通に論考すれば、信長がフルタイム論考の末にだした結論でもって、動いていることくらい簡単にわかります。
それすらせずに、タニクサやっている藤沢周平という人物は、史上最低の下種以外の何者でもない!
とこのゆるちょ的世界では、簡単に指摘できてしまいます。
僕は
「作品と創作者の評価は別!」
と考えている人間です。
ですから、藤沢周平氏を批判しましたが、その作品は別に評価すべきもの!と考えています。
まあ、創作者は鼻つまみ者のうんこ馬鹿でも、作品は素晴らしい!なんて例は、それこそ、何億!とありますからね。
さて、信長のそういう態度、
「今の自分を捨てた人間は、人間ではない!そのDNAは永久に抹消すべきだ!」
という態度は、宗教が、
「人間性を捨てさせるモノでは、あってはならない!」
という信長個人の思いを表現しています。
そして、それを裏返せば、信長の宗教観は、
「宗教とは、人間を幸福にするべきものだ!現世利益を約するものであるべきものだ!」
というモノだと言えることができる!と思います。信長の強い思いがわかります。
だから、彼は、結局、
「現世利益を施す者こそ、この世界では、神!と呼ばれるのだ。
それは、自分でしかないだろう!」
という結論に至ると見ていいでしょう。
非常に合理的だし、理解できる内容です。
そう。信長の行動は、論考していて、楽しい程に、すべての行動が一貫しているのです。
だから、どこをとっても、結論が同じになるのです。
これを読み取れなかった藤沢周平というひとは、論考ということをできないひとだったのです。
そう。多分、明智光秀程度の脳しか持っていなかったのでしょう。かわいそうなひとだと、言えます。
まあ、これを読んで激昂する藤沢周平ファンの方もいると思いますが、
何度も言うように、作品は別です。別に評価されるべきですからね。
そして、信長の神観がだだわかりになるのです。
「現世利益!こそ、神への奉仕に対する見返りでなければならない!」
ということに落ち着くわけです。
そして、この態度こそ、日本人の神への思いを変える契機にも、なったのです。
もちろん、これだけでは、ありません。
とりあえず、今日のところは、信長のこの部分を指摘して、終わりたいと思います。
というか、信長は、言うべきことがいろいろあるので、ひとつずつ、きちんと書いていきたいわけです。
しかし、おもしろいよね、信長。
その行動に、フルタイム論考の結論が垣間見えるからね。
ほんと、このおもしろさがわからずに、感情的に信長をみるひとが、いかに多いことか!
作家は、感情でひとを見ては、いけないと思うけどなあ。
やっぱり、思考停止者に堕していたんじゃないかなあ!と思うね。
俺、偉いんだ的な思想にとりつかれて!
それは、すぐに不幸せになる態度だぜ!
そういうのもわからないんだから、おめでたいというか、どういうひとなんだろうね?
まあ、結論的に言うと、
「藤沢周平なんて思考停止者なんだから、フルタイム論考者の信長に遠く及ばないじゃん。ただのうんこあほ馬鹿だね(笑)」
ということに、なりますね(笑)。
まあ、そんな奴のことは、忘れて、明日も信長の話をしようか!と思います。
まあ、今日は、軽く、これくらいにしておきましょう!
では、ここまでのおつきあい、ありがとうございました。
また、次回、お会いしましょう!
ではでは。
今日は、最高温度が6度にしかならないそうで!
もう、春なんですよ!
菜種梅雨だかなんだか知らないけど、いい加減春らしい天候になってほしいですね!
もう!ということで、
ずずっと熱い紅茶で脳みそを起こしております(笑)。
まあ、この論考シリーズもいろいろな結論が出てきて、それらが示唆に富んでいるので、その先の話も続けたい想いもあるのですが、
今日から普通に戻り、ちょっと信長について話をしていきましょうか。
日本人と神、というテーマを基本に考えながら、信長は日本人に何をしてくれたのか?
というあたりを論考してみましょうかね。
では、ゆるゆる~と始めてまいりましょう!
さて、信長というひとは、「フルタイム論考者だ!」ということになりましたが、
そのために、いろいろ独特な結論の元、その行動は過激になっています。
フルタイム論考の末に、彼には結論がもたされるわけですから、
周りの人間がついて行けないのも、あたりまえ!なわけです。
そのひとつに、伊勢長島の虐殺!というものがあります。
元々伊勢長島というのは、一向一揆の集まりで、これをどうにかしようと、兵を出した信長は、
散々な目に会い、有力武将を戦死させたりしました。
それに激怒した信長は、彼らを「なで斬り」することにしたのです。
戦力を整え、準備万端整えた信長は、
「現世利益を放棄し、ただの兵士として宗教に協力し死を求める奴ばらは、すでに人間ではない。
そして、その血も後世に残すべきではない!」
という結論をフルタイム論考の末にだしていた!と考えられます。
伊勢長島の一向一揆は、こうして、全員虐殺という方針で討ち取られます。
まあ、信長のやったことの中でも、むごい仕打ちとして、今に伝えられ、いろいろな物語がつむがれています。
しかし、同じ論考者として、信長を見たとき、やはり、そういう結論を信長が出していた!
という本質を見るべきだ、と思います。
そして、おもしろいのは、血という概念です。これは、いわゆるDNAと同義になるのです。
昔のひとは、経験的に、血を残すことが、どういうことか、わかっていたのです。
そう。僕がDNAにこだわるのと、同じ感覚を古来のひとは、経験的に知っていたのです。
この信長が出した結論を僕は支持します。
日本人の美学がこわれた人間のDNAを残すべきでない。いや、それ以上に、信長は自分が悪魔と呼ばれようと、
魔王と呼ばれようと、断固として、フルタイム論考の末にでた結論を支持し、実行したということでしょう。
彼の行き方は、示唆に富んでいます。
彼の行き方をみれば、彼がいろいろな結論を得ていたことがわかるし、
それこそ、人間が生きる上で、得る貴重な結論というものが、後世でも、わかるからです。
それに対して、論考できない、他人を感情でしか見れないアホ!というものが存在します。
これは、井沢元彦氏の著書にある藤沢周平氏批判の話になるわけですが、
藤沢周平は、織田信長が
「ひとを殺すことに喜びを得て居る節がある」
として、嫌いだ!という文章を書いています。
そして、そのことを
「低次元でひとを見て、好き嫌いを文章化するのは、作家として行う姿勢ではないだろう!」
と井沢氏が批判しているのです。
僕は作家というものは、読者に物語を提供するわけですから、読者へ誤解を与えてはいけない!存在だ!と思っています。
そういう人間が、単なる好き嫌いレベルで文章を書き、要はタニクサをやってるわけですからね、
あほうんこくそ馬鹿!だなあ、と思います。まあ、史上最低の下種!なわけです。
それに、レベルがあほうんこくそ馬鹿より低い。
普通に論考すれば、信長がフルタイム論考の末にだした結論でもって、動いていることくらい簡単にわかります。
それすらせずに、タニクサやっている藤沢周平という人物は、史上最低の下種以外の何者でもない!
とこのゆるちょ的世界では、簡単に指摘できてしまいます。
僕は
「作品と創作者の評価は別!」
と考えている人間です。
ですから、藤沢周平氏を批判しましたが、その作品は別に評価すべきもの!と考えています。
まあ、創作者は鼻つまみ者のうんこ馬鹿でも、作品は素晴らしい!なんて例は、それこそ、何億!とありますからね。
さて、信長のそういう態度、
「今の自分を捨てた人間は、人間ではない!そのDNAは永久に抹消すべきだ!」
という態度は、宗教が、
「人間性を捨てさせるモノでは、あってはならない!」
という信長個人の思いを表現しています。
そして、それを裏返せば、信長の宗教観は、
「宗教とは、人間を幸福にするべきものだ!現世利益を約するものであるべきものだ!」
というモノだと言えることができる!と思います。信長の強い思いがわかります。
だから、彼は、結局、
「現世利益を施す者こそ、この世界では、神!と呼ばれるのだ。
それは、自分でしかないだろう!」
という結論に至ると見ていいでしょう。
非常に合理的だし、理解できる内容です。
そう。信長の行動は、論考していて、楽しい程に、すべての行動が一貫しているのです。
だから、どこをとっても、結論が同じになるのです。
これを読み取れなかった藤沢周平というひとは、論考ということをできないひとだったのです。
そう。多分、明智光秀程度の脳しか持っていなかったのでしょう。かわいそうなひとだと、言えます。
まあ、これを読んで激昂する藤沢周平ファンの方もいると思いますが、
何度も言うように、作品は別です。別に評価されるべきですからね。
そして、信長の神観がだだわかりになるのです。
「現世利益!こそ、神への奉仕に対する見返りでなければならない!」
ということに落ち着くわけです。
そして、この態度こそ、日本人の神への思いを変える契機にも、なったのです。
もちろん、これだけでは、ありません。
とりあえず、今日のところは、信長のこの部分を指摘して、終わりたいと思います。
というか、信長は、言うべきことがいろいろあるので、ひとつずつ、きちんと書いていきたいわけです。
しかし、おもしろいよね、信長。
その行動に、フルタイム論考の結論が垣間見えるからね。
ほんと、このおもしろさがわからずに、感情的に信長をみるひとが、いかに多いことか!
作家は、感情でひとを見ては、いけないと思うけどなあ。
やっぱり、思考停止者に堕していたんじゃないかなあ!と思うね。
俺、偉いんだ的な思想にとりつかれて!
それは、すぐに不幸せになる態度だぜ!
そういうのもわからないんだから、おめでたいというか、どういうひとなんだろうね?
まあ、結論的に言うと、
「藤沢周平なんて思考停止者なんだから、フルタイム論考者の信長に遠く及ばないじゃん。ただのうんこあほ馬鹿だね(笑)」
ということに、なりますね(笑)。
まあ、そんな奴のことは、忘れて、明日も信長の話をしようか!と思います。
まあ、今日は、軽く、これくらいにしておきましょう!
では、ここまでのおつきあい、ありがとうございました。
また、次回、お会いしましょう!
ではでは。
まあ、ノブの歴史的功績は極めてでかい事は認めざるを得ませんが、天下への野望を表したころから見えてくる残虐さはやっぱり好きになれません、つーか嫌いです(ただし、人格的に嫌いではありますが、信長の功績はやはり大きい、とは理解してはいますが)。
信長公記に以下のような信長評があります。
「信長様は、常人では律せられないお方でござる。好き嫌いや、事の善悪の彼岸で論じる事の出来ぬ部分がありまする。武士ばかりでなく、何万人という無くの民、女子供を殺された.比叡山や一向宗徒から見れば,法敵、殺人鬼と罵られても仕方のないお方じゃ。だが、そんな欠点という谷がいくら深くとも、長所という山の高さが、ずば抜けていれば、その山の高さが、ずば抜けていれば、その山の偉大さだけで許されてもよいのではないか」
井沢氏が言うのは「信長の負の部分だけをもってその功績をも認めないのはどうだろうか」って事なので、そこは同意です(同意したうえで俺は信長が嫌いです)。
だが、同様に上のノブ評のように「功績がでかいんだから少々の残虐行為は大目に見ろよ」ってのも違うんじゃないでしょうかと思います。ってか、井沢氏にせよ大田牛一にせよ「明らかに残虐行為である」「(やられた立場から見れば)恨まれても仕方ない」とは言ってるわけだしね。
信長を狂信的に信じるのもいいですが、信長に逆らった奴は死んで当然、批判する奴もクソ、って姿勢は下手すりゃそのノブが排除した狂信的宗教勢力と紙一重、って事を少し考えて法がいいのではないかな。
ただ、やはり、話にくいこともあって、できれば、コメントネームでもいれてもらいたいものですね。
では、少々長くなりそうですが、コメ返し、はじめていきましょう!
>…信長好きの井沢元彦すらドン引きしそうな論調ですねえ。
はあ。まあ、誰がどん引きしようが、それは構わないのですが、それはどのあたりなんでしょうか?
>まあ、ノブの歴史的功績は極めてでかい事は認めざるを得ませんが、天下への野望を表したころから見えてくる残虐さはやっぱり好きになれません、
>つーか嫌いです(ただし、人格的に嫌いではありますが、信長の功績はやはり大きい、とは理解してはいますが)。
僕がこの記事で、言いたいのは、
「ただ残虐だから嫌いだ」
という意見は、藤沢周平という小説家の意見として、
「感情的に物事を判断しているのではないか。それは、小説家の意見としておかしいのではないか。影響力があるだけに」
ということを言っています。
だから、と言ってこのコメ者が、信長の残虐性を嫌いであろうと、それについて僕は何かを言う立場にはありません。
それは、個人の自由であるし、僕が問題にしているのは、小説家である人間の発言としては、
感情的になりすぎなのではないか、ということです。
>信長公記に以下のような信長評があります。
>「信長様は、常人では律せられないお方でござる。好き嫌いや、事の善悪の彼岸で論じる事の出来ぬ部分がありまする。
>武士ばかりでなく、何万人という無くの民、女子供を殺された.比叡山や一向宗徒から見れば,法敵、殺人鬼と罵られても仕方のないお方じゃ。
>だが、そんな欠点という谷がいくら深くとも、長所という山の高さが、ずば抜けていれば、
>その山の高さが、ずば抜けていれば、その山の偉大さだけで許されてもよいのではないか」
この文章の主張していることは、
「欠点がいかに大きくても、山が高ければ、その偉大さだけで、許されてもよいのではないか」
という文章に表されています。
つまり、
「残虐なことも数々やったけど、功績も大きいのだから、許されてもよいのではないか」
ということで、
「信長が残虐なことは、確かだが、功績に免じて、許してもらいたい」
ということを主張しています。後世の人間に対して、
「許してほしい」
と、言っているということですね。
この文章は、信長を好きな人間なら、一度はたどり着いている有名な文章だと思うんですが、
この文章は、信長に好意的に文章を書いた、信長公記の筆者の考えだ、ということで、
それこそ、信長のために文章をつむいだひとの言葉なので、幾分その点を差し引いて、言葉の意味を考える必要があると思います。
まあ、そんな言葉ですが、それでも、
「許してやってほしい」
という言葉に留まっているということが指摘できると思います。
まあ、
「手放しで褒められない」
ということでしょうね。
しかし、信長公記を書いた人間の文章だからと言って、信長の本質が見えているか、どうか、というのは、別の話です。
彼は、ジャーナリストであって、どういうことが信長の周りに起きたか、については、書き留めています。
しかし、信長の真意が、どうであったかについては、分かり得ていない、というより、浅い推測に終わっている。
だから、彼の言葉であろうと、僕はそこを信頼しすぎるのは、危ないことだ、と考えています。
さらに、僕は、信長が根切りをした理由が、合理性のあるモノ(劣化したDNAを持つ人間を後世に残してはならないという理由)
であると、説明し、さらに残虐な根切りという方法をとることで、後世の人間から、いかに嫌われようと、
そんなことに頓着せずに、自分の判断通り、根切りを実施した彼の自分の意見に殉じる姿勢を評価するということをこの記事で説明しています。
言わば、信長の合理的判断と、いかに悪罵を投げかけられようと、敢然と根切りを実施した、信長の強い精神と行動力を評価すると、言っているのです。
だから、この信長公記からの抜き書きによる、
「信長は手放しで褒められない、と、信長公記の作者も言っている」
という内容は、僕の主張をなんら、否定するものでは、ありません。
そんなことは、信長自身、わかっていたはずですから。わかっていて、実行したから、その
「強い精神力ど、旺盛な行動力」
を評価しているわけですからね。
>井沢氏が言うのは「信長の負の部分だけをもってその功績をも認めないのはどうだろうか」って事なので、そこは同意です(同意したうえで俺は信長が嫌いです)。
この話については、上の信長公記より、信長の功績を認める、という方向に話が一歩踏み込んでいます。
ただ、僕が、言いたいのは、功績を認める云々でなく、あくまで、僕的に信長を考えると・・・という文脈です。
だから、井沢氏の話とは、まるで違ったアプローチをしていることになりますね。
>だが、同様に上のノブ評のように「功績がでかいんだから少々の残虐行為は大目に見ろよ」ってのも違うんじゃないでしょうかと思います。
>ってか、井沢氏にせよ大田牛一にせよ「明らかに残虐行為である」「(やられた立場から見れば)恨まれても仕方ない」とは言ってるわけだしね。
これについては、僕も同意します。やられた方からみれば、どういう理由があるにせよ、恨まれるのは、仕方ありません。
残虐行為であることに、変わりはありませんからね。
>信長を狂信的に信じるのもいいですが、信長に逆らった奴は死んで当然、批判する奴もクソ、って姿勢は下手すりゃそのノブが排除した狂信的宗教勢力と紙一重、
>って事を少し考えて法がいいのではないかな。
まあ、このあたり、少し言い訳をすると、
この記事を書いた一年前は、まだまだ、ブログをはじめた当初でしたし、人間的にもブログ経験が浅く、いわゆるあんぽんたんのガキでした。
ただただ、
「どうやったら、自分の思いを、強調して、メッセージとして出せるのか」
を試行錯誤していた時期でした。だから、ゲロとか、クソとか、うんことか、まあ、普段使わない汚い言葉を形容詞にすれば、より強烈に響くかな、
という思いで書いていたようです。それは、今読めば、
「反感を持たれても仕方がない」
表現であることも、確かだなあと、
「何も知らないって、こわいことだ」
と、素直に思います。
>信長を狂信的に信じるのもいいですが、
ただ、ひとつ言いたいのは、信長の合理的判断の素晴らしさと、魔王と呼ばれてもひるまない強い意志と行動力を評価したものであって、
要は、合理性を、評価しているに過ぎません。
それについて、評価の理由をできるだけ細かく、説明したつもりなのが、この記事であって、
僕は狂信的に信長を信じているわけではありません。
というより、狂信的に・・・という言葉は、何も考えずにただただ、信長素晴らしいと考えている人間を言うのではありませんか?
理由もなく、信長至上主義の人間を、
「狂信的!」
と言うのでは、ありませんか?
僕は評価の理由を説明している、ということで、狂信的!という評価は、やはりはずれていると考えます。
>信長に逆らった奴は死んで当然、批判する奴もクソ、って姿勢は
これについては、僕はそういうことを言っているつもりは、ありませんでした。
僕は信長の合理性と強い意志、行動力を評価しましたが、
だからと言って、
「死んだ奴は、当然!」
とは、言っていません。
さらに、
「批判する奴もくそ!」
という言い方は、していません。
藤沢周平氏は、作家です。しかも、名前をなし、影響力も大きい。
だから、そういうひと、としての行動としては、
「感情的に、好きになれない」
と、言い切ってしまうのは、いかがなものか、と言っているんです。
もちろん、感情的に好きになれない、のは、しょうがない、と思います。人間ですからね。
ただ、歴史モノも書いている作家が、つまり、自分の仕事を「時代」というものから頂いている「時代モノ作家」とも言える氏が、
その「時代」というものに、
「感情的に、モノを言う姿勢は、そぐわないものが、ないだろうか」
ということを言っているつもりです。
もちろん、僕は人間というものに、多くを求めすぎているのかもしれません。
でも、こういう議論というのは、はじまりがなければ、深化しませんし、そういう意味もあって、声をあげる、ということは、大切だと、
と思っているんですね。
だから、こういう記事をあげているんですね。
まあ、否定されるかなあ、とか、思いながら、言葉を待っているんですね。
>(そういう姿勢は)下手すりゃそのノブが排除した狂信的宗教勢力と紙一重、
>って事を少し考えて法がいいのではないかな。
うーん。
つまり、
「自分の気にいらない人間は、くそだ!」
と僕が言っていることになるのですが、
「それは、まず、当たらない!」
ということだけは、わかってほしいものです。
どちらか、と言えば、
「作家だったら、影響力もあるんだから、本意をひとには、言わないでおくっていう手もあるんじゃないかな」
とか、
「感情的に、なにかを判断し、それを言ってしまうのは、少し子供じみては、いないだろうか」
とか、
「藤沢周平という大作家なんだから、井沢さんの言うように、少しは、信長を評価してもいいんじゃないの?」
と言った当たりの意見です。
ただ、書いているうちに、考えましたが、
「やはり、人間というのは、感情の動物だから、理性では、抑えきれないものなのかもしれない」
と思うようになっています。
ただ、僕は、なで斬り、という歴史的事件に対して、
「なぜ、そういう悲劇が起きたのか?それを起こした理由が知りたかった」
という姿勢でいたために、答えが見えたことに、興奮して、こういう記事を書いたのだと、思います。
だから、一面的な見方になったのかな、と思いますね。
やはり、こういう記事をあげるときは、バランスとして、なで斬りされた側についても、考察すべきだった、ということになります。
まあ、いろいろ誤解を与えたかもしれませんが、話が深化したと思います。
ためになる、議論の深化する、コメントありがとうございました。