集団的自衛権容認「よくなかった」50% 朝日新聞調査(朝日新聞) - goo ニュース
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1週間のニュースをまとめた番組では、あのとても奇妙な記者会見に押されっぱなしだったようだが・・・・
他の人はどうかわからないが、この話になると私はどうしても小学校時代を思い出してしまう。
子ども心に、喧嘩はしませんと宣言したら、喧嘩をしなくてすむものなのか?と思ったのも事実だが、喧嘩はしないと宣言するのは格好いいと思ったのも事実だ。
そして先生が言った「自分で作ったのではないと言われている憲法だが、たとえそうだったとしてもこの国の憲法は恥ずべきものでなく、立派なものだ。」というのは大人になっても覚えている。
両親は難しいことは一つも言わなかった。
母の実家は田町のそばで和菓子屋を営んでいたらしいが、戦争が激しくなってから親戚を頼り平塚の方に疎開したらしい。肩身の狭い疎開暮らし。「毎日毎日玉ねぎばっかり食べた日もあった。山羊を肉も食べたりしたけれど、昨日まで乳を飲んでいた山羊の肉だったし、なにより固くて臭くて食べられたもんじゃなかった。」と何十年も経った後でも眉を潜めていた。
「戦争がなければあのまま和菓子屋を続けていたかもしれないけれど、戦争が終わってからはもう和菓子屋をやる気力がなかったみたいだ。戦争が終わったあと頑張ろうと思った人もいたみたいだけれど、おじいちゃんはお金を貸すからと言われても、もうそんな気にならなかった・・・・結局お酒を飲んで飲んで、それで亡くなったから・・・・」
父の実家も貧しくさらに兄弟も多くて大変だったらしい。
父は思い出すのも嫌だったようで多くは語らなかった。遠縁のおばさんから「農家の知り合いもなくて、毎日の食べ物にも困っていたはずよ。」という話を聞いただけだ。父にその話を正しても「うちの近所は皆貧しかった。。。」というだけだった。
二人とも「戦争は食べるものが無くなるっていうことだ。」と小学生だった私に教えてくれた。当時は「(人はなぜ憎しみあうのか?とか殺し合いはいけないことだとか・・・)もっと先生のようにいろいろ難しい話をしてくれないのか?」と思ったのものだが、戦争の頃は両親も小さかったのだ。
「食べ物がない」という記憶だけが鮮明に残っていたのだろう。
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子どもの頃に聞いたり見たりしたことは、こんな風に突然思い出したりするものだ。
首相の頭の中には子供の頃見聞きした祖父や父親の姿が残っているのではないかとも思ったりする。