「日常の指導よりも」9月16日
書評欄に、東大特任准教授内田麻理香氏による『「同調圧力 デモクラシーの社会心理学」キャス・サンスティーン著、永井大輔、高山裕二訳』に対する書評が掲載されました。その中にとても印象に残った記述がありました。
『知識のない、主体性のない人が同調するのではと思われるだろうが、米国の連邦裁判所の裁判官のような知的エリートも同調する事例が紹介される(略)これを免れるにはどうしたらよいか。著者は、異論は集団の中で疎んじられるが、この異論を申し立てる人びとの権利を守るべきだという。異論を促す措置を講じるのは、制度自体の利益を守ることになる』という記述です。
日本にしろ、米国にしろ、民主主義国家の裁判官は、法と良心に従って他者の干渉を受け入れずに自分で判断することが強く求められる存在です。当人たちはそのことを熟知しているはずですし、日頃から心掛けているはずです。それにもかかわらず、周囲の同調圧力に影響を受けているというのです。
しかも、日本人に比べて、集団の同調圧力を受けにくいとされる米国人が、です。私はこの記述から、個人の良心や知性に頼る「同調圧力の排除」は難しいと考えました。もちろん、無意味ではありませんが、個人個人の良心や知性を育むこと以上に、異論を述べる人を守るシステムを構築することの方が、効果が大きいと思うのです。
この考え方を、学校におけるいじめ問題への対応に当てはめてみたらどうなるでしょうか。かつて、道徳教育推進校においていじめが発覚したときに、一部の識者は、どんな道徳教育を行ってきたのか、と批判しました。道徳教育にいじめ防止効果を期待するという発想は、個人の知性や良心の役割を過大に評価することであり、そもそもが間違いだったのです。
では、学校における「異論を述べる人を守るシステム」とは何か、それは教員の存在だと考えます。学級でも、部活でも、その場の「最高権力者」は教員であるのが普通です。もし、一部の子供が実質的な「最高権力者」となっているとすれば、そのこと自体が、いじめの温床に堕していることを表しています。担任交代、複数の教員の介入などの緊急措置が必要な状況です。
そうではなく、大多数の学級や部活では、教員が子供同士のトラブルへの介入権やルールの決定権、指導権や最終決定権をもっているはずです。つまり、教員がその場のシステムの重要なパーツであると同時に構築者だということです。教員が、と敵に異論を求め、出された異論を丁寧に拾い上げ、異論の内容とは別に異論を述べた勇気を評価し、異論を述べることを推奨する雰囲気を作り出すことに注力することが、システム構築なのです。
普段からそうした姿勢を心掛けている教員とそうでない教員とでは、学級や部活内の空気は全く異なります。いじめ対策には、まず教員が同調圧力を排除する人であることを求めるべきです。実際には、教員が先頭に立ち、自分にとって都合の悪い異論を抑え込んでいることが少なくないのではないでしょうか。
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