ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

楽しいからやる

2017-05-19 07:48:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「抑止力」5月11日
 東京大東洋文化研究所教授安富歩氏が、『法律で抑止できるのか』という表題でコラムを書かれていました。その中で安富氏は、製薬会社からの資金提供を抑止する新法の制定に纏わる問題を取り上げ、『法律による罰則や、第三者機関の整備、データ解析専門家の育成、倫理教育の強化などで果たして不正は抑止できるのだろうか。そもそも、医学関連の研究は(中略)巨額のお金が動き、真理の探究という学問の本来の姿がゆがめられやすい。そこに刑事罰という非常に強い圧力を加えれば、事態はむしろ悪化するのではなかろうか』と述べ、『必要なことは、圧力を下げること』という提案をなさっています。
 具体的には、『研究資金を企業が直接研究者に届けるのではなく、国が集めて自動的に配分する。研究結果が間違って人が死んでも、その責任を研究者には負わせない。そのかわり、成果を上げても立身出世の機会にはならない』というシステムだそうです。
 企業が資金提供する動機がない、意欲のない無能者と勤勉な有能者が同じでよいのか、死亡事故の被害者は死に損か、研究成果に因らないのであればどのような基準で出世していくのか、など突っ込み所満載の提案です。残念ながら安富氏の提案が日の目を見ることはなさそうです。
 とはいえ、大変魅力的な提案であることも事実です。安富氏の提案を支える考え方は、『純粋な好奇心によって研究が行われる』ことこそが学問のあるべき姿であるという思想、『人間が創造的であるのは、その人が真剣に遊んでいるときだけ』という人間観だからです。これは、今話題の「アクティブ・ラーニング」の根底に流れる発想と共通するものです。さらに言えば、私自身が教員時代に社会科指導法の研究に取り組んだときの実感にも近いものなのです。
 もう何度書いたか分からないほどですが、私は、教員として、指導主事としての全ての期間、社会科指導法の研究に打ち込んできました。怠け者で飽きっぽい私でしたが、どういう訳か、続けることができました。その間、一度も第三者から強制されたことはありませんでした。もちろん、いくら研究に時間と労力を費やしたからといって、給与が上がるわけではありませんし、金銭的な見返りは皆無でした。出世(教員の世界に出世があるかは疑問)にも無縁でした。40歳を目前に社会科の指導主事になりましたが、それは目的ではなく結果にすぎません。ただ間違いなく言えるのは、20代、30代の私にとって、社会科指導法の研究は楽しくて仕方がなかったということです。
 授業記録を取り分析するのも、研究団体の役員として授業の事前研究で議論することも、論文をまとめて発表することも、研究会で先輩に噛みつくことも、後輩に教えたり資料を提供したりすることも、全てが活力になっていたのです。
 もちろん、よい先輩や仲間に恵まれたことも大きな要因でしょう。しかしやはり自分がやりたいことを自由にやることができた、という条件が大きかったと思うのです。教員の資質向上、従業力向上の必要性が叫ばれ、様々な方策が検討されています。私自身、教委で多くの研修会を企画し実施してきた者として、それらを否定するつもりはありません。ただ、なんといっても、教員の意欲や興味・関心、創造性を信じ、教員が「真剣に遊ぶ」ような状態で授業法の研究等に打ち込める環境作りという発想で具体的な施策が練られることが一番効果的だと思うのです。
 教員はぬるま湯体質に馴染んだ怠け者揃い、というような教員観が支配的な現状では望むべくもないのですが。まず、一度、教員の「真剣な遊び心」を信用してはもらえないものでしょうか。

 

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