ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

差別に寛大は不要

2024-08-09 08:13:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の場合は?」8月1日
 ノンフィクション作家藤原章生氏の連載コラム『25年後のアフリカ』は、『もともと悪い人間はいない』という見出しで、北アフリカでの体験を綴られていました。
 その中に、『人それぞれだが、多くの場合、差別意識はその人の浅い部分からきている。気質や存在感など、その人をつくる核の部分よりもずっと外側を覆っているコロモに過ぎない。そう思っているからだろう。指導や政治信条、宗教と同じように、そんなものは一夜の経験で180度覆ると考えている(略)いくらアフリカ人差別を口にしても、私は「なんか言ってら」と思うだけで、この人を嫌いになることはできない(略)差別的な言葉に神経過敏になり身構えていた30代のころと、今の自分は明らかに違う』という記述がありました。
 ゴワゴワしたものを飲み込んでしまったような違和感を覚えました。藤原氏は、この前段で、30代のときに、コンゴで中国人に間違えられ、集団で殴るけるの暴行を受けたと書かれているのです。アジア人差別です。そんな経験をしたにも関わらず、差別意識など一夜で覆る軽いものだと捉えているわけです。私には理解できませんでした。
 もちろん、感覚や価値観は人それぞれ、私の感じ方の方が正しいと言うつもりはありません。ただ、教員が藤原氏のような考え方をしていてもよいのか、ということが気になりました。学級で、ある子供が「Kは、金子って言っているけど、本当は韓国人だから。韓国人って平気で人騙すよな」と口にしたとき、『何を言われても、やや上を向き、平然と笑っている自分がいた』でいいとは思えません。
 私ならば、本来は平静であるべきにもかかわらず、やや興奮して「ちょっと待った。今、○○さんが言ったことについて、ちょっと時間をとって話したい」と言い、子供たちを集めると思います。大問題だ、と思ってしまうからです。見過ごすことは、容認することで、○○さんとKさんだけの問題でなく、学級の全員に「韓国人は平気で人を騙す」という偏見を肯定したことになってしまうと考えるからです。
 そしてそれは、韓国人の部分を、貧乏人でも、女はでも、年寄りはでも、外国人はでも入れ替えて、騙すの部分を、バカでも、臭いでも、要らない奴でも、入れ替えることで、全ての差別や偏見を容認することにつながると考えるからでもあります。
 一般的には、細かいことに目くじらを立てるよりも、おおらかに包み込む方が望ましいとされます。私も同感です。しかし、差別や偏見、人権侵害については別なのではないでしょうか。少なくとも、教員は、あるいはより広い意味での教育者は、差別への寛大さをもつ必要はないと考えます。
 「差別だ偏見だ、人権侵害だってうるさいこと言うなよ、何だよそれくらいのことで、もっと大きなゆったりした心をもてよ」、差別を指摘されそんなことを言い返す子供を育てたくはありません。私は心が狭いのでしょうか。

 

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