ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

正義病

2024-08-02 08:36:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「絶対にやっている」7月22日
 真宗佛光寺派・大行寺住職英月氏が、『マミー』という表題でコラムを書かれていました。その中で英月氏は、和歌山カレー毒殺事件の死刑判決を疑う映画監督らの取り組みを取り上げています。私は以下の記述が印象に残りました。
 『事件の舞台になった場所にも行き、近所の人たちに聞き取り調査を行います。その熱心さには頭が下がります。けれども、ふと思います。もし私が近所の住人だったら、取材を受けただろうか?多くの人がそうであったように、インターホン越しに断ったのではないか。そうして断ったにもかかわらず、その音声や家の外観が映画に使われるのは嫌なものです』。
 私も今までに、耳目を集める事件後の報道で、取材を断られるシーンを見たことがあります。そのときは何も思いませんでした。でも、考えてみれば、取材を断る、それは映像も音声も使わないでくれ、という意思表示です。それなのに声を生で流され、住んでいる家の外観の映像を流されてしまう、それは個人や住所の特定にもつながりかねない暴挙だということに気付きました。
 そして英月氏の言葉はさらに続きます。『「自分が正しいという思いに立った時、自分の一番いやらしいところが出る」と。「冤罪を暴く」という「正しいこと」をしているのだから、取材相手たちが傷付いても構わない。何なら、罪を犯しても-。監督の激しい行動に恐怖すら覚えました』と。
 もちろん、英月氏は監督批判のためにこの文章を書かれたのではありません。『「自分は正しい!」と思った時、私たちも平気で人を傷付けているのかもしれません。自分ではまったく気付かないままに』と書き、自分事として、正義と信じることの恐ろしさに警鐘を鳴らしていらっしゃるのです。
 正義を盲信、これは教員にとっても注意すべきことです。一般的に言って、教員には、正義を信じるという傾向が強い人が多いように思われます。学生時代には「良い子」であったようなタイプです。こうした傾向は、教員という立場になってさらに強まります。
 私の知っている校長は、どんなに急いでいるときでも学区では、横断歩道でないところを横切って渡るということをしませんでした。子供や保護者が見ているかもしれないから、という理由でした。こうして、立場に顧慮して正しいことを続けているうちに、正義の人になっていくのです。子供が熱を出したという連絡を受け保育園に急ぐ親が、車の通っていない道路を走って横切る、そんな際にも「子供の手本となるべき大人が交通ルールを破ってどうするんだ」と断罪するようになっていくということです。
 教員を続け、正義の人になっていった結果、常に子供に対して「私(教員)は子供のために正しいことをしているんだ」という意識をもって接するようになり、正しいことをしているのだからその結果子供が傷ついても、保護者が嫌な思いをしてもそれは許されるべきだ、と思い上がっていくのです。
 言うなれば教員病、教員が陥りやすい職業病のような症状が現れてしまうのです。経験を重ねた中堅、ベテランの教員ほど、自分は大丈夫か振り返ることが必要です。

 

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