ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

大学を鏡に小中を映す

2017-10-03 07:36:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「私が決める」9月26日
 現代史家林英一氏が、『大学教育』という表題でコラムを書かれていました。その中で大学教員でもある林氏は、大学の在り方に関して、『いろいろな講義に出ることで、テーマをみつけ、自分にあった表現のスタイルを磨く。卒業するために沢山の単位をとらなくてはならない理由は、おそらくそこにある』『「文系は役立たない」との批判を聞く。しかし、役立つかどうかを決めるのは、誰なのだろう。国家や会社なのだろうか。私は学生ひとりひとりだと思う』と書かれています。
 私はこのブログで学校教育について書いてきました。とはいっても、大学や大学院についてはほとんど何も知らず、自分が指導主事や指導室長として関わってきた義務教育について語るように心掛けてきました。両者は違うものだと考えているからです。
 ただ、大学のあるべき姿から、逆に小中学校のあるべき姿や役割が浮かび上がってくるということはあり得ると思っています。林氏は、役立つか否かを決めるのは学生自身であると述べています。これは、大学生の発達段階を踏まえ、法的にも成人となった彼らの判断力を尊重する考え方です。だからこそ、自分で履修科目を選び、価値がないと思えば、講義に参加しない「自由」も認めるということになるのでしょう。
 一方で、小中学生にそうした「自由」を認めることはあってはならないのです。彼らには、自分にとって役に立つか否かを判断するだけの判断力はないのですから。こうした考え方に立つとき、小中では国が学習指導要領という形で何をどれだけ学ぶかということを決め、指導者である教員には一定の資格を求めるという行為が正当化されるのです。そして、この授業は役立たないという理由で、授業に出席しないという行為も、よくないこととして指導対象になるのです。
 しかし一部に共通する部分もあります。それは、林氏が「いろいろな講義に出る」といっている部分です。いろいろ出るからこそ、自分にとって役に立つことが判断できるという考え方は、義務教育を構成する考え方でもあります。大学生になって「いろいろな…」を可能にするためには、小中高において、「いろいろな…」の基礎を培っておくことが必要になるということを意味します。算数・数学を学ばずに大学で高度な数学理論を理解することはできませんし、理科の学びなしに理論物理学や生理学に取り組むことは無理でしょう。日本史や世界史の流れを知らずに、特定の地方の特定の時間の生活や文化を考えることもできません。
 つまり、大学で「いろいろと自由」学び、自分なりの「役立つ」を見つけるために、小中は「強制的にいろいろ」学ばせる、ということなのです。今、小中学校の段階から、将来「役立つ」人間になるために効率的に、言い換えれば「いろいろ」ではなく「狭く集中的に」学ばせることがよいという動きがありますが、それは間違いだということなのです。
 小中学校では、直接的にはその後の人生に役立っているようには思えないことでも、自分なりの「役立つ」を見つけるために、広く薄くいろいろ学ばせることが必要だということです。

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