ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

だから魅力的

2018-09-06 07:56:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「性善説は困る」8月30日
 WBAミドル級チャンピオン村田諒太氏が、『「社会」子どもから学ぶ』という表題でコラムを書かれていました。その中で村田氏は、我が子と知人の子供3人の関わり合いを見て、『3人になった途端、そこに「社会」が生まれていました。面白いのは、3人の時には2人が仲良くして1人を邪魔者扱いする(略)子どもの時から人は常に仲良く過ごせるわけではない、というのが現実』と書かれています。私も「面白い」気付きだと思いました。村田氏は、なかなかの観察眼をもっているとも感じました。
 しかし、その後、『子どもはけんかをしても放っておけば、自らの力で解決もしてくれます。そして、また笑顔も取り戻してくれます』と書かれているのには納得できませんでした。これは、子供を「無邪気な天使」「無垢な存在」視する性善説であるように感じてしまうのです。
 私は、子供も大人も、良いこともすれば悪いこともする、優しさを見せることもあればとてつもない残酷さを見せることもある存在だと考えています。相手によって、そのときの気分によって、置かれた状況によって、いくつもの顔を見せるのが人間であり、子供も例外ではないという認識です。
 もし子供が無邪気な天使であるのならば、自殺するまでクラスメートを追い込むいじめなど起きないはずです。友人関係に悩んで不登校になる子供が毎年数万人もいるはずがありません。にもかかわらず、子供性善説を主張する人がいます。しかし、私の経験からすれば、子供性善説は弊害が大きいのです。
 まず、いじめも不登校も、単なるけんかでも、子供性善説の立場に立ってしまうと、善なる存在である子供がこんなひどいことをするはずがない、と事実そのものを否定してしまい、そのことが問題の解決を遅らせる原因になってしまうケースがあるということです。
 また、善なる子供がこんなことをしたのは、余程の事情があったはずだという発想に陥り、それが実際以上に教員や学校の対応や指導に問題があったはずだという思い込みを生み、過剰な責任追及が行われる場合もあります。その結果、教員や学校側が萎縮したり、事実を隠そうとしたりするという問題が生じてしまうのです。
 さらにやっかいなのは、子供性善説を自分に都合よく利用する人たちがいることも問題です。つまり、我が子は善なる存在であり、我が子以外は例外的な犯罪予備軍とでもいうような見方をする保護者が存在するのです。彼らは、我が子=善という前提であらゆる事態を解釈しようとするため、トラブルメーカー、モンスターペアレンツ化してしまうのです。
 そしてこうした性善説は、大人と子供という対比の中だけではなく、健常者と障害者という対比の中でも行われ、障害者は汚れを知らない存在というようなばかげた神話を信じるものが少なくないのです。とんでもない話です。それこそ、障害者は健常者とは違うぞんざいであるという差別意識そのものであるにもかかわらず、そうした人は障害者の味方面をするのです。そうそう、子供性善説論者が、子供の味方を自認するように。
 子供をよく見る者は、一方的な性善説の立場に立つことは絶対にありません。一般の方はともかく、教員の中に子供性善説を唱える人がいたら、それは観念上の子供だけが頭にあり、実際の子供、目の前の子供を見ていない未熟さの表れなのです。子供をよく見ることを怠った者が、子供の良き理解者や味方であるわけがないのはいうまでもないことです。
 嘘をつき、いじわるをし、見栄をはり、他人を妬み嫉妬する、悪口を言い、ルールを破り、大人の目をごまかそうとする、だからこそ、子供は魅力的なのですよね。

 

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