ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「道」の危うさ

2018-05-02 07:48:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「道」4月19日
 大槻英二記者が、『書は人なり』という表題でコラムを書かれていました。その中で大槻氏は、書家後藤竹清氏の言葉を紹介しています。『「どんなに字がうまくても、人間を鍛えなければ、人の心を動かすような“よい書”は書けない」と。では、どう鍛えればいいのか。「書道は諸道。芝居を見たり落語を聞いたり、いろいろな世界から吸収して心を豊かにすることだよ」』。
 日本人は「道」が好きだといわれます。茶道、華道、香道など、○○道と名の付くものがたくさんあります。そうした芸事や習い事だけでなく、商人道や医師道など、職業についても、「道」を求めてしまうのです。野球道、サッカー道、将棋道など、他の分野でも「道」という響きに何らかの魅力を感じてしまうのが日本人なのです。そして「道」に共通するのが、人間性や人としての器の大きさといわれる精神的な何かが重視されるという考え方です。
 教員の中にもこうした考え方をする人がいます。それは2つの意味で間違っていると思います。一つは、授業の中にこの「道」精神を持ち込むことです。高校の芸術科目に書道があります。一方、小中の国語科に書写があります。墨を持ち、硯に水を入れて擦り、毛筆を手にして、文字を書くという共通点があります。ですから、教員の中にも、書道と書写を同じものだと誤解している人がいます。しかし、この両者は全く異なるものです。書道展に行くと、入選作の大半は読むことができません。それでも素晴らしい書なのです。芸術だからそれでよいのです。
 それに対して、国語科の中の書写は、正しい字を書くことが目的です。文字の美しさという主観的な側面ではなく、文字の伝達機能に着目した客観的な側面で評価されるのです。ですから、書道展で入選するような美しい文字、感動を与え、人を動かすような文字であっても、読めない文字を書いた子供は、低評価となるのです。
 まあこれは小さなことですが、より大きな影響を及ぼしているのが、「教員道」というような概念をありがたがる風潮です。以前「論より証拠」で教職課程で学ぶ大学生釘田氏のコラムを取り上げたとき、釘田氏の『授業のテクニックは回数を重ね勉強すればレベルが上がるかもしれない。でも人生経験はいくら努力したってつたえることができない』という記述について、人生経験を伝えることが教員の使命ではないと疑問を呈しました。これは、豊かな人生経験が良い教員の条件的な考え方につながっていくからです。そしてさらに、教員「道」という、精神性重視の考え方につながっていくのです。
 豊かな人生経験は、悪いことではありません。しかし、それは、教えること、授業の専門家としての教員の専門性を保証するものではありません。教員に必要なのは授業力です。それだけです。
 将棋界の頂上に立つ羽生善治永世7冠は、将棋はあくまでも棋力、正しい手を深く正確に読み切ることが大切で、大きな勝負に人間性が関わる部分は少ないと言っています。プロ棋士の世界でも、昔はタイトル戦などの大勝負では、最後にものを言うのは人間力だ、などと言われましたが、史上初(おそらく最後の)永世7冠達成者である羽生氏はそのことを明確に否定したのです。
 だからといって私は、人生経験とそこからくる人間性を否定しているわけではありません。あくまでもその分野で必要とされる技能や技術を極言まで高める修業こそが大切であり、多くの凡人にはそこまででさえ到達できないといっているのです。その上で、プラスアルファとしての人間性を求めるのは、1000000人に一人の天才が、極限までの高みに上り詰めた後、後1mmを求めるときだけなのです。
 多くの凡人は、努力や修業の苦しさから逃れ、自分を甘やかしたくて人生経験という概念を持ち出すのだと思います。少なくとも私はそうでした。羽生竜王ほどの高みに達してなお、棋力を高めるための修業を重視するのです。凡俗が人生経験がもたらす人間性や精神性を口にするのは烏滸がましいのです。そういえば、「指導力不足教員研修」の参加者の中には、教員としての力量を高めるためにしていることと訊くと、読書や人生経験を挙げる人が多かったものです。

 

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