--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
------(P.91)---(以下、本文)-------
4 創価学会・公明党七つの大罪
◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である
◆ アナクロニズムの罪
◆ 危険をはらむ盲目的服従
◆ 他人を「ノロウ」ものの罪
◆ はなはだしい人間性への冒涜
◆ 人を惑わす八方美人の罪-1 (~以上、前掲 P.114~)
◆ 人を惑わす八方美人の罪-2
こうした批判はだいたい公明党のかかげるすべての政策について該当する。外交政策についても「地球民族主義」を理念とし、具体的政策としては、日米安保体制の段階的解消、等距離完全中立、日中国交正常化、アジア、太平洋不可侵・不干渉の国際環境樹立、国連アジア本部の東京設置等々、あまり反対が起こりそうもないことばかりをいっているのである。
公明党のいう「地球民族主義」とはどういうことなのだろうか。これは世界民族主義ともいわれているが、これについて池田大作は『政治と宗教』の中でおおむね次のように述べている。
「われわれの思想は、文明論でいえば第三文明、政治観からいえば仏法民主主義、経済観からいえば人間性社会主義、新社会主義、福祉経済、国家観からいえば、世界民族主義である。その根底はすべて、最高の仏法なのである。
科学の異常に発達した今日の世界で、昔からの国境を守り、相争うなどということは、愚の骨頂である。時代の移り変わりを、指導者も民衆も真剣に考えなければならない。
地球上のいかなる国も、いかなる民族も、一体であって、ともに繁栄を期すべき時である。国家を越え、民族を越え、さらに集団陣営や国家群を越えて、地球全体の安全、全人類の平和維持を考えなければならない『新しい時代』に入った自覚に立たなければならない。
地球上の民族は、すべて一つの地球民族であるとの意識を持つべきである。やがては、国境は、対立のための国境ではなく、行政上の区画ぐらいになり、世界連邦の結成へと進むべきであろう。
……われわれは、あくまで国連を尊重して、また、世界各国が、同じく国連を重視する機運を盛り上けるべく努力したい。そして、軍備を必要としない世界をつくることを理想としなければならない。そしてこの際、その裏付けとなるべき力ある宗教が、どうしても必要となるのである。
日蓮大聖人の仏法は、一閻浮提(全世界)の仏法である。わずか日本一国だけを対象とし、問題にしているのではない。宗教に国境もなければ民族の相違もない。生命論のうえからして、いずれの民族も、平等である。日蓮大聖人の大慈大悲からすれば、人類は当然一体となって、ともどもに繁栄すべきことを、最大の眼目とされているのである。
所詮、世界各国の責任ある為政者たちが、権力や利己主義の奴隸になることなく、真に生命の尊厳にめざめ、人間性の尊重をはかり、全人類の真実の自由と平等を旨として、指導、指揮をとっていくならば、戦争もありえず、すべての人々が願う完全軍縮も可能であると確信して止まない。
世界連邦の提唱も、いまに始ったことではない。しかしその根底となるべき偉大なる哲学もなく宗教もないのでは、いつまでたっても進展するわけがない。その掲ける理想が高くても、全世界を指導すベき哲学と実践がなくては、いつまでたっても実現できるわけがないのである。いかなる哲学書も、社会主義や民主主義の理論体系も、みな人類の幸福をめざしていないものはないであろうが、しかし、すべて観念論にすぎず明確な実践理念は示しえないのである。ここに、力強い真実の理論体系、実践理念をあたえているものは、東洋仏法の神髄たる色心不二の大生命哲学を説く、日蓮大聖人の大仏法以外にないことを知るべきである。しかして、日蓮大聖人の仏法を根本とするならば、かならずや世界連邦の実現も可能となることを訴えるものである」
以上述べられていることを要約してみると、民族や国家などの枠を前提とする古い世界観や、狭いかぎられた国際観にとらわれることなく、世界は一つの民族という考えをもとうではないかという理念であり、発想なのである。そうなれば国家間の対立も抗争も生じないだろうという主張である。内容としては、自主的に国家主権を制限し放棄するという世界連邦思想に近いということもできるだろう。
しかし、その内容ははなはだ曖昧模糊としてつかみがたいものがある。世界民族主義という新らしい言葉こそ使っているが、従来の宗教上の観念と、現在の政治上の主張をミックスしたものにほかならないということである。しかもこのなかにも述べられているように、理想的な世界をもたらすためには、まず創価学会の教えを全世界に、全人類に及ぼすことが先決となっている。いったいそんなことが可能だと考えているのだろうか。世界にはいろんな宗教が厳然として存在している。しかも、それぞれ自己の宗教こそ唯一絶対のものと信じているのである。
とすれば、創価学会・公明党の述べる理想世界に到達する前に、かなりおびただしい宗教戦争が待ちかまえているといっても過言ではない。宗教の教義自体はそうそう簡単な妥協が許されないからである。
こういう意味からして、片足を宗教に、片足を政治にかけて、世界民族主義を標榜する創価学会・公明党の立場は、あまりにも多くの理論的矛盾をもち、矛盾を陰蔽するために口あたりのよいス口ーガンを手段としてかかげているにすぎないともいえよう。
だから、ベトナム戦争に対しても池田会長は次のようなことしかいえないのである。「べトナム問題解決については、私はべトコンも入れて、関係諸国が全部東京に集まり、世界平和維持会議を開くように提案している。日本も強力にそれを推進するよう努力している。」『中央公論』一九六六年一二月号)
アメリカの介入をやむをえないものとみるのか、それとも反対なのか。それはベトナム戦争解決に役立つのか、逆なのか。その辺が全く曖昧である。国際政治はそんな曖昧な言葉で左右されるものではない。「即時停戦」のお題目だけではどうしょうもないのである。具体的な解決策と、その解決策をもっての具体的な行動こそが、この種の問題における決定的な要因となるということである。会議を提唱しているというが、そんなことで人が集まると考えているのであろうか。それは自民党政府がやるのか、どこがやるのか、提唱するだけなら簡単である。
いったいだれがそのイニシァティブをとるのかということに大きな問題があるといわなければならない。
ベトナム戦争解決の提案一つにしても、たとえばウ・タント国連事務総長のような具体的な提案をしたら、と要求すること自体が無理なのであろうか。そのような発想がなく、むしろわざわざ具体性をボカして、責任をとらなくてもいいところへ逃げこんでいくのだ。つまり八方美人的な、あたりさわりのないような発想をしておく。そういうものを有難がっているところに一つの大きな問題があるといわなければならない。
したがって池田会長自身は何ら責任を追求されることもなく、“へま”は公明党の政治責任であり、学会会長としてはまったく知らないということになる。公明党委員長の首のすげかえでもすればそれですむことなのである。まことにけっこうな立場にあるわけてある。
創価学会会員一千万人を動員して、日本政府に訴え、国際世論に対する大衆運動でも起こしたらどうなのだろうか。それとも創価学会・公明党には、内外に訴える具体策も説得力もないというのであろうか。これでは地球民族主義はますます恣意的な理論操作のなれの果てということになってきそうである。
少くとも「地球民族主義」にしろ、「人間性社会主義」にしろ、「第三文明の哲学」にしろ、全部デッチあげられた言葉であり、モザイク細工のような理論的曖昧さが目立ちすぎるといことである。そういうモザイク細工でも感激する人間がいるのであるから、まだまだ日本の文明程度は低いということかもしれない。
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