創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-28

2021-01-26 10:08:06 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編) 


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
 ◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
 ◆ アナクロニズムの罪
 ◆ 危険をはらむ盲目的服従
 ◆ 他人を「ノロウ」ものの罪 
 ◆ はなはだしい人間性への冒涜
 ◆ 人を惑わす八方美人の罪-1  (~以上、前掲 P.114~)
◆ 人を惑わす八方美人の罪-2
 こうした批判はだいたい公明党のかかげるすべての政策について該当する。外交政策についても「地球民族主義」を理念とし、具体的政策としては、日米安保体制の段階的解消、等距離完全中立、日中国交正常化、アジア、太平洋不可侵・不干渉の国際環境樹立、国連アジア本部の東京設置等々、あまり反対が起こりそうもないことばかりをいっているのである。
 公明党のいう「地球民族主義」とはどういうことなのだろうか。これは世界民族主義ともいわれているが、これについて池田大作は『政治と宗教』の中でおおむね次のように述べている。

 「われわれの思想は、文明論でいえば第三文明、政治観からいえば仏法民主主義、経済観からいえば人間性社会主義、新社会主義、福祉経済、国家観からいえば、世界民族主義である。その根底はすべて、最高の仏法なのである。
 科学の異常に発達した今日の世界で、昔からの国境を守り、相争うなどということは、愚の骨頂である。時代の移り変わりを、指導者も民衆も真剣に考えなければならない。
 地球上のいかなる国も、いかなる民族も、一体であって、ともに繁栄を期すべき時である。国家を越え、民族を越え、さらに集団陣営や国家群を越えて、地球全体の安全、全人類の平和維持を考えなければならない『新しい時代』に入った自覚に立たなければならない。
 地球上の民族は、すべて一つの地球民族であるとの意識を持つべきである。やがては、国境は、対立のための国境ではなく、行政上の区画ぐらいになり、世界連邦の結成へと進むべきであろう。
 ……われわれは、あくまで国連を尊重して、また、世界各国が、同じく国連を重視する機運を盛り上けるべく努力したい。そして、軍備を必要としない世界をつくることを理想としなければならない。そしてこの際、その裏付けとなるべき力ある宗教が、どうしても必要となるのである。

 日蓮大聖人の仏法は、一閻浮提(全世界)の仏法である。わずか日本一国だけを対象とし、問題にしているのではない。宗教に国境もなければ民族の相違もない。生命論のうえからして、いずれの民族も、平等である。日蓮大聖人の大慈大悲からすれば、人類は当然一体となって、ともどもに繁栄すべきことを、最大の眼目とされているのである。
 所詮、世界各国の責任ある為政者たちが、権力や利己主義の奴隸になることなく、真に生命の尊厳にめざめ、人間性の尊重をはかり、全人類の真実の自由と平等を旨として、指導、指揮をとっていくならば、戦争もありえず、すべての人々が願う完全軍縮も可能であると確信して止まない。
 世界連邦の提唱も、いまに始ったことではない。しかしその根底となるべき偉大なる哲学もなく宗教もないのでは、いつまでたっても進展するわけがない。その掲ける理想が高くても、全世界を指導すベき哲学と実践がなくては、いつまでたっても実現できるわけがないのである。いかなる哲学書も、社会主義や民主主義の理論体系も、みな人類の幸福をめざしていないものはないであろうが、しかし、すべて観念論にすぎず明確な実践理念は示しえないのである。ここに、力強い真実の理論体系、実践理念をあたえているものは、東洋仏法の神髄たる色心不二の大生命哲学を説く、日蓮大聖人の大仏法以外にないことを知るべきである。しかして、日蓮大聖人の仏法を根本とするならば、かならずや世界連邦の実現も可能となることを訴えるものである」

 以上述べられていることを要約してみると、民族や国家などの枠を前提とする古い世界観や、狭いかぎられた国際観にとらわれることなく、世界は一つの民族という考えをもとうではないかという理念であり、発想なのである。そうなれば国家間の対立も抗争も生じないだろうという主張である。内容としては、自主的に国家主権を制限し放棄するという世界連邦思想に近いということもできるだろう。

 しかし、その内容ははなはだ曖昧模糊としてつかみがたいものがある。世界民族主義という新らしい言葉こそ使っているが、従来の宗教上の観念と、現在の政治上の主張をミックスしたものにほかならないということである。しかもこのなかにも述べられているように、理想的な世界をもたらすためには、まず創価学会の教えを全世界に、全人類に及ぼすことが先決となっている。いったいそんなことが可能だと考えているのだろうか。世界にはいろんな宗教が厳然として存在している。しかも、それぞれ自己の宗教こそ唯一絶対のものと信じているのである。
 とすれば、創価学会・公明党の述べる理想世界に到達する前に、かなりおびただしい宗教戦争が待ちかまえているといっても過言ではない。宗教の教義自体はそうそう簡単な妥協が許されないからである。

 こういう意味からして、片足を宗教に、片足を政治にかけて、世界民族主義を標榜する創価学会・公明党の立場は、あまりにも多くの理論的矛盾をもち、矛盾を陰蔽するために口あたりのよいス口ーガンを手段としてかかげているにすぎないともいえよう。
 だから、ベトナム戦争に対しても池田会長は次のようなことしかいえないのである。「べトナム問題解決については、私はべトコンも入れて、関係諸国が全部東京に集まり、世界平和維持会議を開くように提案している。日本も強力にそれを推進するよう努力している。」『中央公論』一九六六年一二月号)

 アメリカの介入をやむをえないものとみるのか、それとも反対なのか。それはベトナム戦争解決に役立つのか、逆なのか。その辺が全く曖昧である。国際政治はそんな曖昧な言葉で左右されるものではない。「即時停戦」のお題目だけではどうしょうもないのである。具体的な解決策と、その解決策をもっての具体的な行動こそが、この種の問題における決定的な要因となるということである。会議を提唱しているというが、そんなことで人が集まると考えているのであろうか。それは自民党政府がやるのか、どこがやるのか、提唱するだけなら簡単である。
 いったいだれがそのイニシァティブをとるのかということに大きな問題があるといわなければならない。

 ベトナム戦争解決の提案一つにしても、たとえばウ・タント国連事務総長のような具体的な提案をしたら、と要求すること自体が無理なのであろうか。そのような発想がなく、むしろわざわざ具体性をボカして、責任をとらなくてもいいところへ逃げこんでいくのだ。つまり八方美人的な、あたりさわりのないような発想をしておく。そういうものを有難がっているところに一つの大きな問題があるといわなければならない。
 したがって池田会長自身は何ら責任を追求されることもなく、“へま”は公明党の政治責任であり、学会会長としてはまったく知らないということになる。公明党委員長の首のすげかえでもすればそれですむことなのである。まことにけっこうな立場にあるわけてある。

 創価学会会員一千万人を動員して、日本政府に訴え、国際世論に対する大衆運動でも起こしたらどうなのだろうか。それとも創価学会・公明党には、内外に訴える具体策も説得力もないというのであろうか。これでは地球民族主義はますます恣意的な理論操作のなれの果てということになってきそうである。
 少くとも「地球民族主義」にしろ、「人間性社会主義」にしろ、「第三文明の哲学」にしろ、全部デッチあげられた言葉であり、モザイク細工のような理論的曖昧さが目立ちすぎるといことである。そういうモザイク細工でも感激する人間がいるのであるから、まだまだ日本の文明程度は低いということかもしれない。
     ----------(つづく)---------123

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価学会を斬る-27

2021-01-25 10:48:27 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
 ◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
 ◆ アナクロニズムの罪
 ◆ 危険をはらむ盲目的服従
 ◆ 他人を「ノロウ」ものの罪 
 ◆ はなはだしい人間性への冒涜 (~以上、前掲 P.114~)
◆ 人を惑わす八方美人の罪-1
  第四の罪は、創価学会の政治支店、公明党の政策的曖昧さにある
  公明党の政策をみると、まことにきれいごとの羅列としか思えないものばかりである。
 「自民党は大企業を代弁し、社会党は労働組合を代弁している。これに対して公明党は、あらゆる階層、あらゆる職業、ありとあらゆる人々を代表する政党である」という。そういう立場の当然の結果として、公明党の政策は、いろいろな人がいろいろな立場から新聞雑誌等に発表した結構千万な意見を、ノリとハサミでつぎ合わせた、スクラップ・ブックのような体裁になっている。一例を行政改革にとってみよう。公明党の主張は次の通りである。

 わが国の行改機構は複雑かつ膨大であり、仕事ぶりは非能率の典型である。公務員は年々増加し、給与総額は膨張する一方である。こうした弊害を是正するために、行政の総合調整(とくにタテ割り行政の弊害是正)、行政機構の整理統廃合をふくめた簡素化、行政需要に即応するための合理化、審議会の大幅な整理縮小と根本的改革、公社・公団の統合と改革、行改事務の合理化、予算編成の機能の大蔵省から内閣への移管、人事管理の刷新、公務能率の増進。等々まこと盛りだくさんである。

 公明党の主張しているこれらの行政改革の具体的プログラムは、見ようによってはこれまでにいい古されてきたことばかりである。たとえば小汀利得老あたりはテレビでもっとズケズケといってきた。その意味では、どのように行政改革をやるか、どこから手をつけるか、公明党ならばここに重点をおいてやるというような具体的な方向性が明示されないかぎり、ほとんど実行性がないということであり、書生論的批判であるといわれてもしかたがない。寄せ集めたオジヤのような主張を、その意味も理解せず、いいことはいいことだとして政策として羅列しているにすぎない。そうしたところに公明党の欠陥がそのまま現われているといえる。

 公明党の主張する行政改革を実行すれば、当然のこととして大量の首切りを行なわなければならない。しかし、そのような側面については一言もふれていない。そして公務員の処遇の改善という口あたりのいい言葉のみ主張しているのである。一方では行政機構の整理統廃合を主張しながら、他方では経済統合本部、中小企業省の設置や福祉事業の公営化を主張している。

 公明党の政策のほとんどは「一つの世界の実現」「災害のない国土」「住みよい環境の実現」「働く者の辛せ」式の、口あたりのいい八方美人的な言葉をずらずらと並べたてているにすぎない。たしかに彼等のいうように、また多くの人が認めているように、日本の行改機構が、複雑であり、膨大であることなど、これは小学生でも知っている事実である。官庁の能率の悪さなど、国民は何らかの経験によって熟知していることである。問題はそれをどのようにしてなくすかというキメ細かな具体策をたてることであり、さらにはこれを政治的にはどのような形で実現していくかにかかっている。行政整理が主張されるたびに、どのように行政整理を行なったらよいか、という役所ができる国柄なのである。こうした事情に対応する政策こそ打ち出すべきではないのか。

 これは単なる一例にすぎないけれども、公明党の政策には、この種のみてくれだけを考えたゴマカシとしか思えないものが非常に多い。あれこれとご馳走を並べているだけで、実効性が乏しく、したがってどれだけ熱意があるのか、まこと疑問といわなければならない。とくに公明党のいうような政策を実現するには、非常に膨大な資金を必要とするだろう。おそらく現在の予算規模を十倍にしても困難ではなかろうかと思われる。その財政的な負担をどうまかなうめか。創価学会・公明党の豊富なる資金をもってしても、百のうち一つもできないことはきわめて明瞭ともいわなければならない。一つのことを実行するために自分のもつ金を投げ出したらどうだ、といいたくなるくらいである。
 さらにくどいようだが政策案をもう少しのぞいてみよう。

 公営による一世帯一住宅の実現、高速道路・立体交差・地下鉄の建設、通勤大衆保護のための建設措置、道路の拡幅と舗装化、公共駐車場の建設、上下水道の完備、水源の確保、ゴミ処理用高性能炉採用、し尿汲取料全廃、生活保護費の即時倍増、保護施設の増設、福祉年金の大幅増額、児童手当の新設、健康保険の国庫負担増額、保健所の充実、その他、中小企業・農林水産業への援助や金融、低開発地域の開発、通信・港湾・空港の整備充実、教育施設の拡充、教科書・学用品・給食無料支袷等々。

 口先だけなら、これは自民党から共産党まで、程度の差ニュアンスの差、発想の差はあっても、ほとんどが主張していることであり、選挙向けのスローガンとしてはケチのつけられないご立派な主張ばかりである。
 竹入公明党委員長は--
 「都議会はキャスティング・ボートをもっていてつらいが、国会は気が楽ですよ。」
 といったことがあるが、公明党の政策もいまの状態のままなら気楽なものであろう。

 また公明党は一方では金のかかる政策を並べながら、他方では、勤労者所得税の大幅軽減、中小企業の税負担の軽減、農地および農業施設の譲渡所得税・不動産取得税の免税、中小専業農家の所得税・相続税・贈与税の軽減、間接税の引上げ反対、公共料金の値上げ反対等々をずらりと並べて主張しているのである。いったい公明党は政策実行のための大規模な財源をどこに求めようとしているのだろうか。
 それは大企業に対する租税特別措置の大幅な整理、政治献金の全廃、交際費・寄付金などの損金算入のワク縮小、補助金・交付金などの整理、防衛費など行政経費の合理化に求められているのだ。政権をとっていない政党はまあなんとでもいえるであろうけれども、これでいったい財源難が解消するかどうか、常識で判断する以外にはなさそうである。

 もっとも竹入委員長は「究極的にはわれわれ(公明党)が理想とするような経済体制が確立されなければ難しい。」といっている。--となれば、それまではいっていることが実行できないということである。そして、政権をとったときに実行できる保障はどこにあるのかというと、これは、はなはだ疑問である。
     ----------(つづく)---------118

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価学会を斬る-26

2021-01-24 06:21:09 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編) 


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
◆ アナクロニズムの罪
◆ 危険をはらむ盲目的服従
◆ 他人を「ノロウ」ものの罪  (~以上、前掲 P.112~)
◆ はなはだしい人間性への冒涜
  立正佼成会青年部調査班の『創価学会批判のために』というパンフレットによれば「吉展ちゃん殺し」の犯人・小原保は学会員だったということだ。それはともかくとして、「御利益」とか「救い」というが、実は折伏そのものが、人の不幸につけこむものだと断定せざるをえない。

 家族が死んだ、病気になった、破産した、クビになった、そうした不幸な人々のところにわざわざやってきて「それは邪教を信じているからだ。日蓮正宗を信じなさい」と説くわけだ。
 こうしたやり方にも、会員個々の主観的意図とは別に、人間性を無視した目的のためには手段を選ばないサデイスティックな異常性を認めざるをえない。
 会員及び会員になる可能性のある人々の傷はナメルように癒すけれども、敵の場合は、その傷口をコジあけようとするのである。彼等のいう相互扶助精神も仲間だけのもので、学会の当面の敵と考える人の人権は、軽視ないしは無視して平然としているのである。

 創価学会は表向きは「人間の尊厳性」をうたっている。しかし「邪宗」信者の死をもって「罰」と感ずる心のどこに「人間の尊厳性」をうたうに値いするものがあるといえようか。池田会長のみを神格化し、会長に絶対服従を誓い、会長のためなら喜んで死ぬという心情倫理は、自己の人間性の尊厳性がわからないもののみがとりうるモラルである。自己の人間性の尊厳性がわからないものが、なんで他人の人間性や生命の尊厳性を知ることができよう。

 組織に対する盲目的服従や忠誠心のためには何でもやる。たとえば会長から声をかけられれば人殺しでもやりかねないわけで、そういう利用された学会員、利用された政治集団、利用された議員とでもいえるものが続々と誕生してきているのだ。
 池田会長は「私は公明党の創立者」と述べている。そして「私の言葉は学会では憲法になってしまうのです」とも語っている。
 「朕は国家なり」とは絶対主義体制下のブルボン王朝ルイ十四世の言葉であるが、池田会長は「私は公明党なり、創価学会なり」と思っているのであろうか。まさに恐るべき傾向である。

 こうした集団、狂信徒集団が政治的な闘いを展開するとき、私は中世の「魔女狩り」のそれに似た宗教裁判の残虐性を想起せざるをえないのである。宗教には妥協はありえないからである。「宗教」の名における人間相互の争いが、人間そのものへの冒涜を生んだことは、古今東西の歴史の上で何回となく見せつけられている
 現在ですらそういう衝突のあることは中東や北アイルランドをあげればよい。このような歴史を無視して、現在においても他にノロイをかざす宗教政党は、いかに罪深い反社会性をもっているか、われわれはいかに深刻にその前途を憂えても、その憂いが深刻にすぎるということはないであろう。
     ----------(つづく)---------114

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価学会を斬る-25

2021-01-23 09:14:05 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
◆ アナクロニズムの罪
◆ 危険をはらむ盲目的服従  (~以上、前掲 P.108~)
◆ 他人を「ノロウ」ものの罪
  第三の罪は創価学会・公明党に一貫する反社会性とでもいえる罪である。これを解りやすくいいなおすならば、他をノロウものの罪といってもよいであろう。他人に対する寛容性のない、いじけた人間の意識の罪である
 創価学会に集っている大多数の人間の知能レべルがどのぐらいであるかということについては、いろいろ議論のあるところだが、ともかく約七〇〇万世帯、一〇〇〇万人余という数字は、それだけで驚異的な、社会的な圧力であることは間違いない。国民の一〇人に1人、幼児や少年をのぞけばそれ以上の割合で信者のいる計算になっている。犬も歩けば棒にあたるように、現状は何かしゃぺると必ず学会員につきあたるというようなことになりかねない。

 すでに「第一部」でも触れておいたように、こういう創価学会の戦後における異常なふくれあがり方は、民主主義の落ち穂拾いの結果である、というように表現できる。つまり、戦後民主主義による平均的底上げの恩典に浴することができず、また既成政党とか、既成宗教の網の目にもかからず、いうならば社会の底辺に放任されておったようなおびただしい国民大衆に対して、「信ずれば助かる」と働きかけたのがまさに創価学会だったわけである。

 “貧と病と争い”に悩む人々、つまり明日の糧に悩む人々、病気で苦しむ人々、精神的に荒廃している人々、要するにワラをもつかみたい人々に「創価学会に入れば、そこにはご本尊という幸福製造機があるのだ」というように、いともドライな表現で近づいたのが創価学会であった。
 過去は問わない“告白”形式によって、ノイローゼ、不安感、孤独感などのストレスを解消させるやりかたとか、つぶれそうな店にいって皆で買物をするといったやり方とか、こうした目に見える“現世利益”は、別に創価学会でなくともやろうと思えぱやれたわけだが、それを落ち徳拾いでもやるように丹念に行なったところに、創価学会組織の広がる原因があった。

 では宗教としてはどうかという点になると、信心そのものがかなり低次元の現世利益を対象としているだけに、まさに「イワシの頭も信心から」というようなものであろう。しかし創価学会のとりえは、この平凡な大衆サービスとでもいえるものを、狂気の熱意をもって行なった点にある。
 本来ならばそういう点においてこそ、大衆に暖かい手をさしのべ、大衆のためにサービスをし、大衆のために闘ってしかるべき日本の革新政党や既成宗教が、この時点において何もせずにサボッていたということの裏返しが学会の発展の因でもあったのだ。その意味では学会による落ち穂拾いはまさに大きな役割を果たしたといってもよい。

 しかし、それにしても創価学会の会員はやたらと“ゴリヤク”なるものを説く。創価学会の聖教新聞はまさに“ごりやく特集新聞”といっても過言でない。説きすぎると思えるほどに説きつづけるのである。信者は現世利益を何とかつかもうとして、半狂乱となって信仰に己れを打ちこむ、そして折伏の教えにしたがって説きあるき、一方ではやさしく暖かい手をさしのべながら、他方ではこれに反する凄みのあるオドシをきかせ、相手を自分のぺースにまきこむという折伏方式を次第に身につけてゆく。

 ではいったいこれらの行動の意味するものは何であるか。創価学会教学部編になる『日蓮正宗創価学会批判を破す』という本の中に次のように書かれている。
 「ちょっと前のことになりますが、学会の悪口をいっていた宗教学者の佐木秋夫氏がお山へ行きたいというので、戸田先生から案内するようにいわれて同行することになったのですが、出発の日に、東京訳で私が待っていたところ、佐木氏の方では、その前日でしたか『子どもが死んだから行けなくなった』というのですね。これは、ハツキリとした罰ですよ。そして帰ってきてからきいたのですが、佐木氏はイナ力へ帰って、邪宗日蓮宗で葬式をだしたというのです。まるっきり、なっちやいないですね」(傍点・引用者)

 学会教学部、つまり学会のいちばん重要な頭脳にあたるところが、こんな,バカバカしい内容の本を堂々と出版しているのである。いったい創価学会は人間の死というものをなんと心得ているのであろうか。いわゆる邪宗を批判するのは、彼等の自由である。意見発表の自由によって競争していく、これはわれわれの関知するところではない。しかし創価学会を批判する人であったとはいえ、その人の子供の死を罰としてとらえ、しかもこれを当然視する態度はいったい何たることであろうか。これをもって学会批判の当然の“報い”と考えて堂々と公表する心理は、まさに恐るべき精神病理性と、人間性の冒涜と、とらざるをえない。まさに“他をノロウ罪”これが学会の本質なのである

 われわれの日常生活には良いことも起こるし、悪いことも起こる。何か悪い結果がでると、これをただちに「邪教を信心したための害毒がなせるためだ」とか、「日蓮を誹謗したためにうける罪障だ」と結論してはばからない神経は、まことこっけいといわざるをえないし、それ自体、基本的に邪教の態度である
 人の不幸をとりあげ、これを過去世よりの罪障とか、宿命とか観念させて、こういう不幸や罰からのがれるためには日蓮正宗を信じ、創価学会に入会する以外に道はないとして、人の不幸を入会勧誘のための手段として用いてよいものかどうか。しかも、その手段として行なわれるものの肥大によって、次第に宗教の本質を喪失してゆき、他をノロウ罪の中に人間性をば没却してゆく。ここに学会の反人間性をマザマザと感ぜざるをえないのである。
     ----------(つづく)---------112

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価学会を斬る-24

2021-01-22 10:20:17 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.91)---(以下、本文)-------

4 創価学会・公明党七つの大罪
 ◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 
 ◆ アナクロニズムの罪  (~以上、前掲 P.106~)
 ◆ 危険をはらむ盲目的服従
  創価学会のもっている行動様式の中で、もっとも危険なものと考えられるのは、一種の盲目的服従を組織の原理にしているというところにある。ここでヒトラーの指導原理を、参考までに創価学会との対比の必要上ふれておこう。
  ヒトラーは、大衆エネルギーを結集するため、お手製の神話の大衆への反覆注入を強調し、党員の指導者への盲目的服従こそが政党の力になることを指摘したが、ファッショ的政党にとっては、盲目的な党員が多いほど都合がよいといえよう。創価学会と公明党の行動からみるかぎり、この傾向はまさに多分にあるといわねばならない。彼等は口を開けば、大衆討議によって決まった、下からのもりあげによって決まった、というようにいっているが、しかしどれだけ下からのもりあがりによって裏打ちされているかという点になるとすこぶる疑問である。

 最終的決定、たとえば仏法の解釈すなわち日蓮正宗の教義の解釈と、その解釈にもとずく理想社会に到達するためのプロセスは、指導者に一任してしまう。こういうような態度を見ても、学会及び公明党は肓目的なことを行動の基本的な条件にしているといってよい。
 したがって池田会長のもとに派閥ができないのは当りまえであり、派閥ができれば終わりなのだから、むしろ盲目的になることを徹底的に日常の教学活動を通じて叩きこんでいるということがいえる。
 創価学会はこういう傾向を、“仏法民主主義”などというまことにけっこうな造語で適当に誤魔化しているだけである。
 スカルノのいう指導された民主主義ではないけれども、池田大作はガイデッド・デモクラシーのリーダー、彼等のいう仏法解釈のきめてをもつリーダーであり、そうしたリーダーシップをもつ民主主義というように“仏法民主主義”をば解釈すべきだろう。

 さらにいえば、宗教には科学的手法が通用しない領域がある。啓示的で絶対的なものである故、宗教の領域にかぎれば、指導者と信徒との関係は、後者が一種の白紙委任を与えたことにもなる。ところが、これがそのまま政治にまで援用されるということになれば、奇妙なる政治神話が創造されることになる。
 ヒトラーは“二十世紀の神話”を書いたけれども、池田大作は“二十世紀後半の日本版神話”を書こうとしているともいえるわけで、ヒトラーのいう肓目的服従の度合いが特に高い公明党であるだけに、ファシズムの危険性が大きいことは明瞭である。
     ----------(つづく)---------108

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする