--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
------(P.91)---(以下、本文)-------
4 創価学会・公明党七つの大罪
◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である
◆ アナクロニズムの罪 (~以上、前掲 P.106~)
◆ 危険をはらむ盲目的服従
創価学会のもっている行動様式の中で、もっとも危険なものと考えられるのは、一種の盲目的服従を組織の原理にしているというところにある。ここでヒトラーの指導原理を、参考までに創価学会との対比の必要上ふれておこう。
ヒトラーは、大衆エネルギーを結集するため、お手製の神話の大衆への反覆注入を強調し、党員の指導者への盲目的服従こそが政党の力になることを指摘したが、ファッショ的政党にとっては、盲目的な党員が多いほど都合がよいといえよう。創価学会と公明党の行動からみるかぎり、この傾向はまさに多分にあるといわねばならない。彼等は口を開けば、大衆討議によって決まった、下からのもりあげによって決まった、というようにいっているが、しかしどれだけ下からのもりあがりによって裏打ちされているかという点になるとすこぶる疑問である。
最終的決定、たとえば仏法の解釈すなわち日蓮正宗の教義の解釈と、その解釈にもとずく理想社会に到達するためのプロセスは、指導者に一任してしまう。こういうような態度を見ても、学会及び公明党は肓目的なことを行動の基本的な条件にしているといってよい。
したがって池田会長のもとに派閥ができないのは当りまえであり、派閥ができれば終わりなのだから、むしろ盲目的になることを徹底的に日常の教学活動を通じて叩きこんでいるということがいえる。
創価学会はこういう傾向を、“仏法民主主義”などというまことにけっこうな造語で適当に誤魔化しているだけである。
スカルノのいう指導された民主主義ではないけれども、池田大作はガイデッド・デモクラシーのリーダー、彼等のいう仏法解釈のきめてをもつリーダーであり、そうしたリーダーシップをもつ民主主義というように“仏法民主主義”をば解釈すべきだろう。
さらにいえば、宗教には科学的手法が通用しない領域がある。啓示的で絶対的なものである故、宗教の領域にかぎれば、指導者と信徒との関係は、後者が一種の白紙委任を与えたことにもなる。ところが、これがそのまま政治にまで援用されるということになれば、奇妙なる政治神話が創造されることになる。
ヒトラーは“二十世紀の神話”を書いたけれども、池田大作は“二十世紀後半の日本版神話”を書こうとしているともいえるわけで、ヒトラーのいう肓目的服従の度合いが特に高い公明党であるだけに、ファシズムの危険性が大きいことは明瞭である。
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