--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
------(P.58)---(以下、本文)-------
◆ “七年目”の飛躍とジンクス
戸田会長亡きあと、やがて池田大作が会長に就任するわけだが、池田会長に対する論評は後に讓るとして、もう少し、創価学会の足跡をたどってみることとしよう。
創価学会では“七”という数字が、その発展に対する時代区分の単位になっているといわれる。これは必ずしも計画的にそうしたわけではないであろうが、結果的には、過去において起こった大きな事件が七年目ごとなので、自然にこの“七”を意識するようになったということのようである。
たとえば、一九三〇年に創価教育学会が創立され、七年目の一九三七年に創価教育学会発会式が行なわれ、つぎの七年目に牧口初代会長が死去し、つぎが戸田会長の就任、そしてつぎの七年目に戸田会長が死去する。さらにつぎの七年目には大石寺大宮殿の建設と衆議院出馬の意思表明等々と、七年目ごとに大きな事件が起こっているというように説明されている。この七年目大事件ということでいくと、つぎの七年目は一九七二年である。果たして、創価学会にとってどういう大きな事件が起こるのか、まさに興味深々といわねばなるまい。
七〇年代になれば、日本が国際社会で果たす役割はいよいよ大きくかわるであろうし、国内においては、創価学会・公明党の政治的真価がまさに問われるタイミングにもあたろう。
それにしてもこの創価学会・公明党が、今後発展するにしても、没落するにしても、それは学会員の増減に大きくかかっていることは、間違いのないところといわなければならない。
そこでここ数年、創価学会はどんな伸び方をしたか、将来の創価学会の姿をみるために、その実態を数字的に探ってみることも必ずしもムダなことではないであろう。
池田大作が会長に就任したのは、一九六〇年である。まさに牧口、戸田に次ぐ第三代創価学会会長ということであった。
一九六〇年の創価学会は、すでに百万世帯を突破し、
・その年の暮には百七十二万世帯に膨張していた。
・翌一九六一年には二百三十万突破、
・一九六二年には三百万台、
・一九六四年には五百万を越え、
・一九六六年六百余万、
・そして一九六七年には六百五十万の大台にのった。
・しかも冒頭に述べたように一九六九年五月現在で七〇〇万世帯というように創価学会は公表している。
日本の全世帯数は約二五〇〇万といわれるから、学会の発表を信ずるとすれば、三・五世帯に一世帯の割合で創価学会の信者がいることになる。しかし、この数字はあくまでも学会の発表であり、当然ながらこの中には若干の脱会者、あるいは統計の曖昧さと宗教団体特有の水増し発表があることは見逃してならないところであろう。ともかく、それはそれとして、七百万前後の世帯が創価学会に入っていることは、まず間違いのないところとみてよいだろう。この世帯数は、日本の全世帯の三分の一弱にあたるから、池田会長お得意の「舍衛の三億」の方程式を満足させるにあと一歩ということになるかもしれない。またこの数的巨大さは創価学会が対社会的にはなはだ強気になる原因となっている。しかし、あと三分の一の支持層を獲得できるかどうか、問題はそこにあるといえるだろう。
創価学会が、公明党という政治支店を出してから、早くも国会関係で三回の選挙が行なわれた。これは創価学会にとっては、信者による選挙組織の強さをはかる一種のテストとなり、学会員が、抜群の成績を収めたことは記憶に新らたなところである。
しかし、他面において学会員外の支持票はどうもほとんど見当らないといわざるをえない。それどころか、最近は学会員組織票の流出がその都度とりざたされるようになった。これは、いったいどうしたわけなのであろうか。
創価学会の政界進出を支える自信となっているものは、その組織に信仰のバックボーンが通っているということであり、その結果として選挙に強いということにほかならないわけである。それがいつまでも学会員の組織票しか当てにできないというのでは、池田会長のいう「舍衛の三億」の方程式を究極的に満足させるのは、まことに容易なことではないといわざるをえない。
これを登山にたとえてみれば、その頂上に近づくにしたがって酸素が枯渇し、息が切れてくるし、はなはだしくあらゆる条件が悪くなってきている、とでもいうことができる。一種の息切れ傾向が現われているということでもある。
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