--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
------(P.72)---(以下、本文)-------
第二部 分析-その病理を衝く
3 そもそも宗教をなんと心得るか
◆ 宗教とは何か… (~以上、前掲 P.80~)
◆ 政治と宗教の分離は自明の大原則
創価学会が公明党を結成し政治に乗り出して以来、政治と宗教との関係があらためて大きな問題となり、一つの波紋を投じたことは厳然たる事実である。王仏冥合をかざす創価学会のイデオロギーからいうならば、久しからずして政界に進出するということは予想できないことではなかったけれども、その急激な政治化はそれなりに大きな問題を宿しているといわなければならない。
政治と宗教は、あくまで別個の領域にあるものとして、厳然と区別されなければならないということは、近代国家原理の自明の大前提である。それは長い歴史的経験を通じて、宗教の政治権力利用があまりにも大きな弊害を与えてきたことに対する人類の智恵がうんだ分離であり仕分けである。古代、中世を通じて、宗教は権力にタッチすることにより堕落し、人間を幸福にするよりも不幸にする機能を果たし、場合によっては大衆を欺瞞し、大衆をマヒさせる阿片的機能を果たしたことは、マルクス主義を信奉すると否とを問わず、宗教に対する透徹した重要な見方といわなければならない。宗教がそういう側面をもっていることは厳然たる事実なのである。
したがって近代社会においては、宗教はできるだけ人間の内面の世界で機能するものとして、その領域を確定し、政治と宗教との関連を混同させないようにすることを基本的なたてまえとしている。
しかるに創価学会の政治支店である公明党は、敢えてこの近代国家における大原則を無視し、政権獲得をもくろんで結成された政党にほかならない。この政教混淆という近代国家原理違反の罪はまことに大きいといわなければならない。宗教が政治に手を出してろくなことはない。そのろくでないことを敢えてしようとするのであるから、その罪は非常に大きいといわざるをえない。
すでにしばしばくり返してきたように、宗教は人間の精神的内面をつかさどるものであり、政治は逆に信仰や良心など、人間の内面の世界に干与してはならないのである。もし宗教が政治に介入したなら、ろくなことは起こらないということは、前述したように歴史の法則なのである。
少なくとも、ヨーロッパにおいて、新旧キリスト教やさまざまな宗教の政治的圧力による弊害のながくかつ苦い体験の中から生まれた信仰・良心の自由や、政教分雜の大原則をゆめゆめ忘れてはならないのである。
最近においても、アラブ諸国とイスラエルとの抗争、北アイルランドにおける市街戦を交じえた新旧キリスト教徒の争い等々、宗教を媒介とすることによって起こる人間の争いの種はつきない。こういう宗教を媒介とする争いをなくすためにも、政治と宗教とは厳然と区別されなければならない。しかるに公明党は、いまや日本における政教混淆の尖兵にわざわざなろうとしているのである。
さて、その公明党なるものが結成されたのは一九六四年一一月のことであるが、そのときいったい党員は何名ぐらいにすればいいかということが問題になった。母体の創価学会の会員数のワク内であればいくらにすることも可能であった。それでその頃の共産党は党員数約十万といわれていたため、公明党はその倍の二十万名ぐらいにしようというような大まかな計算により、公明党の党員数は二十万名と決まって発足したということだ。まことおかしないきさつであり、話である、といわねばなるまい。
日本では党員の氏名を関係官庁に屈け出る必要はなく、責任者だけはっきりしていればよいことになっている。二十万名にしょうが、三十万名にしょうが、いうならば紙の上の操作だけで可能だったというわけである。公明党の委員長をはじめとする役員にしても、創価学会会長池田大作のツルの一声で決まったといわれている。創価学会を中味にして、その上の政治的ポスターの役割を果たしている政党がまさに公明党ということであり、学会員すベてが公明党員であるともいえるし、また逆にいえば、専従の公明党員は一人もいないということでもある。
それはたんなる出店であり、昼だけ働き夜は無人と化する出張所にすぎないという表現もできる。その意味において、公明党はまさに“幻の政党”ということにもなるのである。
この公明党なる宗教政党が、前回の衆議院総選挙で二五名の新議員を国会におくりこんだとたんに、またまた池田大作会長のツルの一声で幹部総入れかえということにあいなった。党の中央幹部会は池田会長のところにおうかがいをたて、新委員長は竹入義勝、書記長は矢野絢也ということに決まったという。二人とも新衆議院議員なのである。
どうやらこの政党のトップリーダーよりも、はるか上位の意思がこの政党を強く動かしているということなのである。
そういう意味では、法皇の権威と皇帝の権威が存在した中世的権威形態になぞらえることもできるわけで、創価学会会長が法皇であり、公明党の委員長は一皇帝にあたるともいえる。佐藤栄作といえども、また成田知巳、西村栄一、野坂参三等といえども、その意味からすれば、貴族的権力としては同列であるが、その一段高いところに法皇的権威として池田会長が鎮座ましますという見方もできるであろう。
したがってな公明党の党大会などというものは、普通の意味の党大会とははなはだ違って、シャンシャンシャンの儀式にすぎない。創価学会は公明党のスポンサーどころか、むしろその上位に位し、内容からいえば公明党は学会の政治対策委員会といったところにあたる。私が、公明党は創価学会の政治支店であり、出店である、という所以も、まさにここにあるわけである。
いうなれぱ、現在の公明党委員長・竹入義勝は学会の支店長クラスといった格であり、事実いうことなすこと、銀行の支店長級人物であるといっても過言ではない。
また、大石寺を総本山とする日蓮正宗の信者組織が創価学会で、この創価学会の政治部が公明党、というように表現することもできる。その点において西ドイツのキリスト教民主同盟、ベルギーのキリスト教民主党、イタリアのキリスト教民主党等々とは本質的にその性格を異にしていることを見逃してはなるまい。創価学会という名のこの宗教集団は、国際的にもまったく前例もないし共通性もない組織であるといっていい。
こういった事情を、公明党は「ヨーロッパにおいては誰からも非難されず、そればかりか多数の人の支持をえて宗教政党がなりたっているではないか」ということで、西ドイツのキリスト教民主同盟、フランスの人民共和派、オーストリア国民党、イタリアのキリスト教民主党、ベルギーのキリスト教社会党、オランダのカトリック国民党などをもっともらしくあげているけれども、こういうような諸政党のあり方と、創価学会・公明党のシステムとは、本質においてはなはだしい違いがあることを無視してはならないのである。
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