--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
------(P.24)---(以下、本文)-------
◆ 徹底した“ご都合主義”集団
それにしても、創価学会という人間集団には独得のエネルギーが溢れており、それなりの馬力があることは否定できない。会員を増やすこと、選挙に勝つこと等々、一度目的が設定されたとなると、まさに皇軍無敵の勢いではないが、破竹の勢いをもって進撃を開始することになる。そうして進撃をはじめたとなると、いかなる手段をも辞さないのである。勝つためにはなんでもやる。どんな形態の組織化もいとわない。そのやり方は要するに“力は正義なり”を地でゆくということである。
マイト・イズ・ライト--強い者が勝つ、勝てば官軍敗ければ賊軍というわけだ。そのやりくちは、およそ人間の内面に自然にくいいる宗教とは無縁な、はなはだ強権的、強圧的なものなのだ。ひとことでいえば、まことに攻撃的性格をもっているということである。こうした団体であり、そういう戦術をとることに特異性をもっているが故に、創価学会を構成している幹部にしても、だいたいは品格のない人ばかりである。なにかというとすぐに脅迫的な威力をかけたがる。さまざまな形で自分たちの組織の強大さをひけらかす。そういう人たちばかりであり、本当に心から感動して、思わず頭を下げたくなるような敬虔な宗教家タイプの人は、まずほとんどいないに等しいといってよい。
私は、創価学会の幹部にはほとんどといってよいくらい会っているが、そういう世間に名のとおった幹部たちにしても、小型政治家か、中小企業のやり手経営者か、銀行員の支店長タイプか、ないしはヤクザ、グレンタイの親分か、ともかく、そのような類型に入る人々がほとんどであり、宗教家のもつ謙虚さ、謙譲さといったものを感ずる人はほとんどいない。
まこと世俗性の強い信仰団体といえるかもしれない。そういう印象がいまや決定的になっているということである。
もっともこういう傾向は、日蓮正宗なるもののもっているまさに避けられない一種の宿命であるかもしない。日蓮正宗という宗教自体の基本的性格の中にそういう傾向があるということであり、そういう傾向があるからこそ、いっそう過大表示というか、自己顕示的病理をアラワにするということかもしれない。
そうした自己顕示ないし過大表示の精神傾向という点では、ナチスや旧日本軍隊はまさに直接の先輩格といってもよいであろう。
彼等の行なうところの大衆運動は、そのほとんどが成功を外見的に誇示するところに狙いがおかれており、内面的滲透は第二、第三のものと考えられている。宗教の形態からいえば、明らかに一種の堕落としかいいようがない。
それにしても創価学会は、まさにそういう外見的デモンストレーション集団としては、もっとも徹底したものの一つということができる。この種のマス運動のなかにまき込まれ、そのなかで踊らされているといってもいい会員大衆は、まことお気の毒というほかあるまい。会員大衆は、そうした運動にまきこまれればまきこまれるほど、一種のバカになるだけだということにもなろう。踊らされるだけで、大衆自身がいったい幸福になれるのかなれないのか、そのことについては、かってのナチスや旧日本軍隊をふりかえってみてもいいし、大日本帝国の進行形態のなかにおいて踊らされた国民大衆の運命というものをかえりみてもよい。そこにおける問題性については、私がここでいろいろと言及する必要もないところである。
ともかく、このようなマス・ムーブメント、自己顕示型、誇大広告型の大衆運動を強引に進めながら、「王仏冥合」などというかなりいいかげんなご都合主義的宗教哲学をふりまわし国民大衆を愚弄しているということは、宗教的にみて、まさにこれほど堕落した形態は、古今東西の歴史にみることができないといっても過言でないかもしれない。
それだけにわれわれは、現代における創価学会のその種の問題をつきつめてみなければならない段階にきていると考えるわけである。
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