--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
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4 創価学会・公明党七つの大罪
◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である
政教混淆、政教混濁の大罪を犯している創価学会と公明党との不透明なる関係は、公明党を創価学会の罪の“落とし子”として見なければならないことを示しているといわざるをえない。では公明党なる罪の落とし子はいったいどのようなものか、それはどのような政治理念をもっているのか、この点をもう少し分析してみる必要があろう。
奇妙なことに、公明党の政治理念は創価学会の宗教理念とまったく同じものであり、いわゆる「王仏冥合」なのである。彼等のいう「王法」とは政治であり、「仏法」とは日蓮正宗の説く宗教哲学である。
この「王法」と「仏法」とを冥々のうちに合一して理想社会を建設するという主張であり、すべてはここから出てここに帰る教義なのである。要するに、日蓮正宗の教えをこの日本のみならず世界に普及するということに、公明党なる政治集団の究極目標があり、その点においては公明党は創価学会なる宗教団体のしていることに、政治的アクセントを加えるためにのみ存在しているものなのである。したがって公明党の行動様式の中で何がもっとも重要かといえば、政治活動の中で、その目標実現のために創価学会と同じように折伏行為を猛烈に行なうことであり、議会で多数をしめ、政界におけるへゲモニーをにぎって日蓮正宗を国教化することなのである。そこにねらいがあるとしか考えられない。そうでなければ公明党という政党を結成した意味もないし、創価学会の出店であるという存在理由もない。
つまり公明党なりの独自の政治理念もなければ、独自の党員基盤もないということである。中味はからっポであり、あるとすれば創価学会以外の何ものでもないということである。したがって目標も創価学会の目標と同じものなのである。
これをもって、果たして政党といえるかどうか、常識をもって判断する以外にはないということであろう。
もっとも池田大作会長は、口先では日蓮正宗の国教化を強く否定している。しかし、「国立戒壇」を国民の代表である国会が認めるところとなれば、国教化することはいつでもできるし、そうなるだろうというような論理を運ばせている者もいるのである。池田大作のいうことは、その意昧においてまことに信用できない政治的ハッタリが多い。つまり公明党が国会の過半数を占めるということになれば、その時はその時で、それは国民の意思なのだから、民主主義のルールにしたがって国立戒壇をもうけ、日蓮正宗を国教としても少しもさしつかえないではないか、ということになる。
すでに述べたように、創価学会が議会に進出をはじめたのは、一九五五年の統一地方選挙のときからであり、翌年の一九五六年には参議院に三名の議員を送っている。
当時としては、衆議院にでても当選がおぼつかなかった創価学会であったために、衆議院にでなかっただけのことであったが、信者を組織して衆議院にも当選者を出すことができるという目安がつくと、それまでいっていた「批判政党に徹する」とか、「批判的政治勢力として活動する」とか、「宗教の政治進出の限界をよく知って行動する」といったキレイゴトはさらりと投げすて、意識的に前言を忘れ、さっさと政権担当を前提とする政党をつくって総選挙に臨んだのである。
このように、スイスイと状況に即応してゆく態度のとり方は、“状況即応的君主豹変型”といえる行動様式であるが、こうした傾向はこの側面にもっとも集約的に現われている。このように、これまでのいきさつから診断するならば、創価学会のいうことは何時なんどきドンデン返しをくわされるかわからず、ぜんぜん信用できない。その創価学会の罪の落とし子である公明党が国民に向かっていうことを信用したなら、何時なんどきまたどのようにドンデン返しをくうかわかったものではない。
そのことは、国教化問題についてもまったく同じであるといわなければならない。池田大作が口先でどのように否定しようとも、創価学会は公明党を通じて天下の政権をにぎろうとしており、日蓮正宗を国教化することに狙いをおいているということである。
現状ではそれを堂々と口にすれば、信教の自由という憲法上の原則から叩かれるし、現行憲法の擁護をうたっている公明党の立場からも具合いが悪いのでいわないだけのことである。彼等は政権をとってしまえば、日蓮正宗を国教化するだけでなく、彼等の都合のいいように憲法をも改正するということになるのではないか。つまり、特定宗教の国教化を否定する現行憲法を改めるということになるだろう。ナチスは、政権を取るまでは多数をうるために現行法を重んじ、政権をとるやいなや従来の憲法を無視するさまざまなことを敢えてし、ヒトラー独裁体制をうちたてたが、そうした経過とまったく同じやりくちをする可能性が大ありなのである。
なお、ここでことわっておかなければならないことは、国教化問題について公明党の竹入委員長も、矢野書記長も「かつて信教の自由が弾圧された時の最大の被害者は創価学会であった。その創価学会が特定の宗教を押しつけるようなことをするわけがない」
と、言明している。しかし、こういう言葉がいったいどの程度まで信用できるものであるか。信仰の自由を弾圧された被害者だから他を弾圧しないということがいえるかどうか、被害者ほど加害意識が強くなる、という事例はよく見られるところであり、狂信者の組織ほどその意識がつよいと私は思う。とくに被害者コンプレックスというものが、加害者の立場にたったときに爆発してくるエネルギーは、旧軍隊においてもわれわれはまざまざと見てきている。だからそんな言葉はまったく信用できない。
ともあれ国立戒壇をつくり、日蓮正宗を国教化するということは、明らかに、憲法にうたわれた信教の自由を侵すものであり、それは憲法第二〇条、第八九条が厳しく禁止しているところである。
日本国憲法第二〇条には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と規定されており、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」とうたわれている。
また第八九条では「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」とうたわれている。
しかし、公明党の幹部たちは、創価学会を母体とし、会員獲得によって政治的勢力を拡大することに重点をおき、日蓮正宗の教えを政治的勢力拡大の一手段として利用することに最大の関心をおいている。そういわれても返す言葉はないであろうといわざるをえない。
もしそう見られるのが嫌なら、堂々と、批判勢力として出発した当初の趣旨をつらぬき通すか、そもそもの出発点である日蓮正宗の国教化を、公然と旗じるしに掲げるべきではなかったか。これを、国教化つまり国立戒壇が違憲で、公明党の政治進出にマイナスだとなると、一夜にしてその教説を都合よく解釈しなおし、「いや、これは国立ではなく、国民の総意によるいわば民衆立の戒壇をつくるのだ」と豹変する態度にこそ、公明党の無内容性、日和見主義、権力オポチュニスト、さらには目的のためには手段をえらばず、常にキャスティング・ポートさえとればいいというあつかましい実態がうかがえるのである。
ところで、“公明党”と「宗教は阿片である」とする共産党は、その政治理念においては当然正反対の立場にたつわけであるが、国会や選挙に対する見方、考え方という点では、どこか共通性をもっているという点を指摘しておいてよかろう。本質的には議会制民主主義政党ではない共産党にとってみれば、国会はいうなれば宣伝の場であり、選挙は党勢拡張の一手段にすぎない。選挙のたびに、当落を無視して候補者を出す日本共産党のやり方に、そのことは明確に現われている。国会においても、絶対少数党の立場で、それをどのように党勢拡大の宣伝の場として利用できるかを考えており、それが共産党の国会に対する考え方、議会政治に対する考え方であるといっても過言ではなかろう。革命に有利な条件をつくりだすために、国会も選挙もすベて利用しつくすということなのである。
そういう点において、公明党の立場も共産党と似ているのである。もし公明党が天下をとれば、創価学会流の「人間革命」を起こし、いうところの「社会革命」を通して独裁的永久政権を企図することになるであろう。そしてこの政党を上から繰つるのは池田大作会長にほかならないということにもなる。保守政党には財界のヒモがつき、革新政党には労組のヒモがついているといわれるが、公明党はヒモどころか、まさに創価学会の罪の落とし子であり、いわぱ、母子相姦の形態によって運営されている政党であるといってもよいであろう。その意味において、公明党の政治的性格を曖昧にする政教混淆、政教混濁の罪をば、創価学会と公明党のなれあい関係から生ずる最大の“罪”として糾弾しなければならないということである。これが「創価学会・公明党七つの大罪」の中の最大の罪にあたるものである。
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