--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
------(P.55)---(以下、本文)-------
◆ 戸田城聖的段階の学会のイメージ
一九五三年末には、創価学会は七万余りの世帯数にまで発展している。それにつれて、折伏活動もいっそう活発になってくるのであるが、他宗を邪教として排撃する激しい行動は、それなりに世間の注目をひかずにはおかなかった。また、社会的に大きな影響を与えるようになるにしたがい、あちこちで摩擦、軋轢を生み、世論の批判の的にもなっていった。
しかし、当時は、このような世論の批判が、かえって学会員にとっては一種のはげみになるという皮肉な結果を生んだ。この時点において創価学会のとった態度は、笠原の前記『政治と宗教』に引用されている戸田城聖の創価学会第二代会長の就任挨拶(一九五一年)で述べた、いわば所信表明とでもいいうるものの中にありありとうかがうことができる。
「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである。御本尊様の真の功徳がわかる究竟即の位の前の、分身印が、すなわち折伏することなので、これが真にあなたたちのためだから、広宣流布をやりなさいというのであります。
お勤めをして、御本尊様に、あれをくれ、これをくれと、功徳をねだるような横着な信心ではなく、ほんとうに、折伏に身をいれて、人々に悪口をいわれ、バカにされて、ますます御本尊様を護持したとき、そこにげんぜんとして、功徳が現われるのです。
始めから、御本尊様は、拝んでくれなどとはけっしていっておられません。われわれの方からどうか拝ませてくださいと願ったのです。一対一のひざづめ談判によって、広宣沆布はなしとげられるのである。
以上、のべたことは、みな自分のためであり、いま、わたくしたちは大きな本門の戒壇を建てるための、ひとつひとつの土台石をはこんでいるのであります。みなさん、真に命をかけて、御本尊様へのご奉公を、しようではありませんか。」
以上のような戸田城聖の所信表明演説は、この当時における創価学会の狙いがどこにあり、どういう形で大衆にアピールしていこうとしていたか、ということをかなりはっきり示しているものだといってよかろう。短かい言葉ではあるけれども、創価学会の目的、広宣流布の方法、折伏のあり方など、それなりに創価学会の性格がえがかれているということである。
ともかく、そのやり方の激しいこと、屍を越えて驀進あるのみというような、猪突猛進に近いいきごみが秘められており、戸田の就任挨拶は、まさに創価学会進撃のラッパを吹いたものといっても過言ではあるまい。このような体当り的精神、猪突猛進精神とでもいうべきものは、その後の創価学会の中に脈々と受けつがれ、一見、ファナティックにみえる幹部たちは、こういう戸田特訓精神のたまものをいまだに有難がっている。
さらに、戸田城聖のすさまじさは「七五万世帯の折伏が達成できなければ、戸田の葬式はだしてはいかん。品川沖へ骨を捨てよ」というような言葉にもそのまま現われている。
こういう教祖的性格とでもいえるものは、戸田城聖において一つの極点にきたということがいえるのではないかと思う。そういう教祖的教しさに刺激されてか、創価学会はそれなりにすさまじい勢いで伸びていることも事実である。創価学会の発表した数字によると--
・一九五四年--年間折伏成果九万四千世帯。総世帯数十六万四二七十二世帯。
・一九五五年--年間折伏成果十九万四二三十九世帯、総世帯数三十万七四九十世帯。
・一九五六年--総世帯五十万世帯達成。
・一九五七年--総世帯数七十五万五千世帯達成。
というように、ざっとみただけでも爆発的拡大であり、一挙に倍々ゲームで拡大しており、こういう側面において果たしたところの戸田城聖の役割は、それなりに大きかったといわなければならないだろう。
その戸田城聖会長が死亡したのは、一九五八年四月のことであるから、「七五万世帯の折伏が...」云々、といった戸田会長の葬儀は、品川沖にその骨を捨てることもなく、まこと盛大に行なわれ、時の内閣総理大臣・岸信介がこの葬列に参加したこともいまなお記憶に新らしいところである。
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