今日(12月31日)は「大晦日、大晦、おおみそか」
旧暦では毎月の最終日を晦日(みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。
大晦日を「大つごもり」ともいった。「つごもり【晦(晦日)】」は、「つきごもり(月陰)」が変化したもので、月が隠れて見えなくなる頃の意。「月ごもり」が転じたものである。もともと“みそ”は“三十”であり、晦日(みそか)は、本来「三十日」と書き、30日の意味だった。転じて月の最終日を意味するようになったが、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。現在では、新暦の12月31日を指す。太陰暦では15日が満月とされ、月はその後欠けていき、最後には月が見えなくなることから、「三十日」に「晦日」の字が当てられたとされている。晦の字には 暗くて何も見えないの意があるそうだ。
大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。大晦日と言われているものは、12月大晦日の宮中行事「年越の祓(としこしのはらえ)」と6月晦日(つごもり)に行われる「夏越の祓(なつこしのはらえ)」と呼ばれるものとともに穢れを祓う行事であり、もとは一対の大祓(おおはらえ)行事だった。このような、1年を2季に分けて同種の行事を繰り返すのは、古い暦法の名残りであり、その頃、1月から6月までを1年、7月から12月までは別の新しい年といった感覚でとらえていた。ちなみに旧暦30日は三十日払い(みそかばらい)といって代金の支払いを済ませる日でもあった。つい最近まで、我々の生活のなかで盆と正月前にそれ迄の決算をするという習慣はその名残りである。
この大晦日と言われている大祓行事については、以前にブログ「夏越祓」で書いたので興味のある人はそこで見てください。
夏越祓(なごしばらい)↓
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f4d74c403291bf52583da00bdecb099d
年越しの夜のことを除夜(じょや)とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、皴が寄るとかいった俗信があった。
毎年12月31日、NHKの人気番組である『NHK紅白歌合戦』の放送が終了した直後の23時30分以降~1月1日未明にかけて全国中継されている「ゆく年くる年」というテレビ番組(ラジオ番組)が放送される。前の放送「紅白歌合戦」の喧騒が一瞬にして消去された瞬間、この番組では、除夜の鐘が鳴り響く各地の寺院の境内や本堂の様子、参拝客たちが深夜の初詣に訪れ新年の祈願をする模様などがリレー中継され、静寂と荘厳な雰囲気に包まれる。私の家の近くにもお寺が幾つかあるので、ほぼ同時にあちこちの寺から、金の音が聞こえてくる。子どもの頃には、除夜の音を聞き終わると、家族で新年の挨拶を交わし、近くの神社へ初詣にいった。近くと言っても結構距離があり、普通は電車でいく距離だが、電車は通っていないので、親戚の者が誘い合って、団体で歩いていった。そして、初詣の後、神社境内の出店を見物し遊んで返ってくるともう夜明け近くになっていた。
除夜の鐘は108回撞かれる。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のそれぞれに苦楽・不苦・不楽があって18類、この18類それぞれに浄・染があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、これは人間の煩悩(ぼんのう)の数を表すとされている。また、月の数12、二十四節気の数24、七十二候の数72を足した数が108となり、1年間を表しているとの説もある。又、四苦八苦を取り払うということで、4×9+8×9=108をかけたとも言われている(四諦 参照)。
煩悩とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ、智慧をさまたげる心のはたらきを言う。
諸の一神教などでは、善と悪のように世界を捉え、物事を悪い方向へ導く「悪」は外在する存在(実体化して悪魔とされることも多い)であるが、仏教の「煩悩」とは自らの心の問題としてとらえており、これが、仏教が一神教などの教と大きく異なる部分である。
煩悩の根源には、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに・しんい)・愚痴(ぐち)のいわゆる「三毒」があり、とくにその中の「愚痴」、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明(むみよう)が、最も根本的なものであるとされている。
そして、その煩悩は、我執から生ずるとされている。
我執とは字のごとく自己中心の考え、それにもとづく事物への執着を言う。今年の1年を振り返ってみると、親殺し、子殺しを含む殺人事件やいじめ、悲しい自殺、詐欺、汚職、それに酔っ払い運転による事故死等々数え上げればきりがないほどに嫌な事件が多かった。これらの事件の根底には、この我執があるだろう。今の世の中、自己中心の考え方が蔓延し、周りの人の迷惑などかまわない人が増え、性欲、金銭欲、名誉欲といった欲に執着している。そんな人たちが、事件を引き起こしているのである。仏様もさぞ嘆かれていることであろう。
仏教では十二因縁の根源に無明をおいているが、すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説かれている。闇は始めから存在しないものである。闇は「光の欠如」ということであって、闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。実際には無いものを有ると考えるのが無明である。それには、智慧がいる。ここでいう智慧は、大学など学校で習う知識の事ではない。昔おばあさんが言ったという笑い話に、「あんた大学なんていくと馬鹿になるよ」といったものがある。これは、本当に真理をついたものである。教育を受け、知識を身につけても本当に必要な智慧は身に付かない。逆に、そんな学問で得た知識が、仏の説く智慧のつくのをさまたげる煩悩の働きをしている場合が多いのである。108つの鐘とともに煩悩を捨て、無心な心で、新しい年を迎えてください。皆様にとって、来年は良い年であることを心から祈っております。
(画像は、除夜の鐘を打つ参拝客。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
除夜の鐘 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A4%E5%A4%9C%E3%81%AE%E9%90%98
四諦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
漢字質問箱その26 -- 漢字家族・re晦
http://ww81.tiki.ne.jp/~nothing/kanji/q/q_026.html
そばの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/687117a0b807c2a635149e6ed4af62d4
旧暦では毎月の最終日を晦日(みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。
大晦日を「大つごもり」ともいった。「つごもり【晦(晦日)】」は、「つきごもり(月陰)」が変化したもので、月が隠れて見えなくなる頃の意。「月ごもり」が転じたものである。もともと“みそ”は“三十”であり、晦日(みそか)は、本来「三十日」と書き、30日の意味だった。転じて月の最終日を意味するようになったが、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。現在では、新暦の12月31日を指す。太陰暦では15日が満月とされ、月はその後欠けていき、最後には月が見えなくなることから、「三十日」に「晦日」の字が当てられたとされている。晦の字には 暗くて何も見えないの意があるそうだ。
大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。大晦日と言われているものは、12月大晦日の宮中行事「年越の祓(としこしのはらえ)」と6月晦日(つごもり)に行われる「夏越の祓(なつこしのはらえ)」と呼ばれるものとともに穢れを祓う行事であり、もとは一対の大祓(おおはらえ)行事だった。このような、1年を2季に分けて同種の行事を繰り返すのは、古い暦法の名残りであり、その頃、1月から6月までを1年、7月から12月までは別の新しい年といった感覚でとらえていた。ちなみに旧暦30日は三十日払い(みそかばらい)といって代金の支払いを済ませる日でもあった。つい最近まで、我々の生活のなかで盆と正月前にそれ迄の決算をするという習慣はその名残りである。
この大晦日と言われている大祓行事については、以前にブログ「夏越祓」で書いたので興味のある人はそこで見てください。
夏越祓(なごしばらい)↓
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f4d74c403291bf52583da00bdecb099d
年越しの夜のことを除夜(じょや)とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、皴が寄るとかいった俗信があった。
毎年12月31日、NHKの人気番組である『NHK紅白歌合戦』の放送が終了した直後の23時30分以降~1月1日未明にかけて全国中継されている「ゆく年くる年」というテレビ番組(ラジオ番組)が放送される。前の放送「紅白歌合戦」の喧騒が一瞬にして消去された瞬間、この番組では、除夜の鐘が鳴り響く各地の寺院の境内や本堂の様子、参拝客たちが深夜の初詣に訪れ新年の祈願をする模様などがリレー中継され、静寂と荘厳な雰囲気に包まれる。私の家の近くにもお寺が幾つかあるので、ほぼ同時にあちこちの寺から、金の音が聞こえてくる。子どもの頃には、除夜の音を聞き終わると、家族で新年の挨拶を交わし、近くの神社へ初詣にいった。近くと言っても結構距離があり、普通は電車でいく距離だが、電車は通っていないので、親戚の者が誘い合って、団体で歩いていった。そして、初詣の後、神社境内の出店を見物し遊んで返ってくるともう夜明け近くになっていた。
除夜の鐘は108回撞かれる。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のそれぞれに苦楽・不苦・不楽があって18類、この18類それぞれに浄・染があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、これは人間の煩悩(ぼんのう)の数を表すとされている。また、月の数12、二十四節気の数24、七十二候の数72を足した数が108となり、1年間を表しているとの説もある。又、四苦八苦を取り払うということで、4×9+8×9=108をかけたとも言われている(四諦 参照)。
煩悩とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ、智慧をさまたげる心のはたらきを言う。
諸の一神教などでは、善と悪のように世界を捉え、物事を悪い方向へ導く「悪」は外在する存在(実体化して悪魔とされることも多い)であるが、仏教の「煩悩」とは自らの心の問題としてとらえており、これが、仏教が一神教などの教と大きく異なる部分である。
煩悩の根源には、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに・しんい)・愚痴(ぐち)のいわゆる「三毒」があり、とくにその中の「愚痴」、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明(むみよう)が、最も根本的なものであるとされている。
そして、その煩悩は、我執から生ずるとされている。
我執とは字のごとく自己中心の考え、それにもとづく事物への執着を言う。今年の1年を振り返ってみると、親殺し、子殺しを含む殺人事件やいじめ、悲しい自殺、詐欺、汚職、それに酔っ払い運転による事故死等々数え上げればきりがないほどに嫌な事件が多かった。これらの事件の根底には、この我執があるだろう。今の世の中、自己中心の考え方が蔓延し、周りの人の迷惑などかまわない人が増え、性欲、金銭欲、名誉欲といった欲に執着している。そんな人たちが、事件を引き起こしているのである。仏様もさぞ嘆かれていることであろう。
仏教では十二因縁の根源に無明をおいているが、すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説かれている。闇は始めから存在しないものである。闇は「光の欠如」ということであって、闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。実際には無いものを有ると考えるのが無明である。それには、智慧がいる。ここでいう智慧は、大学など学校で習う知識の事ではない。昔おばあさんが言ったという笑い話に、「あんた大学なんていくと馬鹿になるよ」といったものがある。これは、本当に真理をついたものである。教育を受け、知識を身につけても本当に必要な智慧は身に付かない。逆に、そんな学問で得た知識が、仏の説く智慧のつくのをさまたげる煩悩の働きをしている場合が多いのである。108つの鐘とともに煩悩を捨て、無心な心で、新しい年を迎えてください。皆様にとって、来年は良い年であることを心から祈っております。
(画像は、除夜の鐘を打つ参拝客。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
除夜の鐘 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A4%E5%A4%9C%E3%81%AE%E9%90%98
四諦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
漢字質問箱その26 -- 漢字家族・re晦
http://ww81.tiki.ne.jp/~nothing/kanji/q/q_026.html
そばの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/687117a0b807c2a635149e6ed4af62d4
毎日の記事アップ、並々ならぬものではありませんよね。
ずっと・・私が読ませて頂くためにもよーさんのブログ
掲示板に置かせていただきますね。
生活が一変し、自分の時間が少なくなり、
スルーすることも多いかと思いますが、
少し見識を深める意味においても勉強しないとね!
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
良いお年をお迎え下さい。
皺が増えるといけないので、寝ないでおきます。
USJのカウントダウン、花火を対岸から見物し、
近所の神社へお参りします。
今年も良い年であるといいですね。
今まで、なかなか訪問できなかったが、これからは時々寄せてもらうね。