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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「南国忌」大衆作家・直木三十五の忌日

2007-02-24 | 人物
今日(2月24日)は「南国忌」。
大衆作家・直木三十五の1934(昭和9)年の忌日。43歳の若さだった。代表作の『南国太平記』から「南国忌」と呼ばれている。
直木三十五(なおき さんじゅうご)が亡くなって、1ヶ月、吉川英治は追悼文に、「文壇も、社会とともに、健忘症である。1年も経ったら、直木三十五という活字も目に触れなくなるであろう」と書いたという。そして、直木の友人だった作家・文芸春秋社長の菊池寛は、「文芸春秋」の同年4月号に「直木を記念するために、社で直木賞金と云うふうなものを制定し、大衆文芸の新進作家に贈ろうかと思っている」と発表。(朝日クロニクル「週間20世紀」)
翌1935(昭和10)年、純文学の「芥川龍之介賞(芥川賞)」とともに、大衆文学の分野の新人に贈る賞として「直木三十五賞(直木賞)」を創設した。
文学賞の「直木賞」の名前は有名なので知っていても、作家としての直木本人について知っている人はもう少ないであろう。・・と、かく言う私も正直余り詳しく知っているわけではない。
ただ、知っているのは、直木が、大阪生まれで、早稲田大学文学部予科入学。2学期より高等師範部に転部するも、学費が払えず除籍されたらしいということ。また、時代小説を多く執筆し、その中の『黄門廻国記』が、月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなったものであること。忌日を「南国忌」と呼ばれる元なったのが、代表作の『南国太平記』である事ぐらいである。水戸黄門は映画や舞台・ドラマなどで数限りなく演じられてきており、今でもTVで放映され、里見幸太郎が水戸黄門を演じており、水戸黄門と言えば、この黄門像がイメージされるほどに庶民の中に浸透している。『南国太平記』も何度か映画化されており、新しいところでは、1960(昭和35)年に同名『南国太平記』で映画かされており、テレビでは、NHKの「水曜ドラマシリーズ」1978(昭和54)年作品「風の隼人(かぜのはやと)}として放映されていたので見た人は多いのではないか。
『南国太平記』は幕末に起こった有名な薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」を題材とした物語であるが、中身は歴史ものとは言え、まことに複雑怪奇で、野趣と呪法と暗闘に富む。三分の一くらいは史実にもとづいているが、残りは荒唐無稽であって、それなのに当時の身分にもとづく人間のありようを描いて現実味に富んだ物語であり、そこが後に「直木賞」の名を冠せられた由縁である。
直木は、『『大衆文芸作法』の中で”大衆文芸の定義”の項で、以下のように書いている。
”大衆文芸の定義を下すなら、「大衆文芸とは、表現を平易にし、興味を中心として、それのみにても価値あるものとし、又は、それに包含せしむるに解説的なる、人生、人間生活上の問題をもってする物」と云いたいのである。”・・・と。
直木三十五の本名は、植村宗一である。彼の筆名のことは、『著者小伝』の中で、"
筆名の由來"を以下のように書いている。
”筆名の由來――植村の植を二分して直木、この時、三十一才なりし故、直木三十一と稱す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。
 翌年、直木三十二。この時月評を二篇書く。震災にて、大阪へ戻り、プラトン社に入り「苦樂」の編輯に當る。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。
 三十四を拔き、三十五と成り、故マキノ省三と共に、キネマ界に入り「聯合映畫藝術家協會」を組織し、澤田正二郎、市川猿之助等の映畫をとり、儲けたり、損をしたりし――後、月形龍之介と、マキノ智子との戀愛事件に關係し、マキノと、袂を分つ。キネマ界の愚劣さに愛想をつかし、上京して、文學專心となる。”・・・と。
あの黄門さんで有名な月形龍之介も、若いころは、妻がありながら「日本映画の父」牧野省三の娘で女優のマキノ輝子(マキノ智子)と不倫・駆け落ちをしてマキノ映画を解雇されるような艶聞があったが、後に輝子と別れてマキノ映画に帰参するなど波乱万丈の人生であったそうだ。
直木は、出版社を始めたり映画の世界にも関心が深く、マキノ省三と共同で映画製作も手を染めたりしたようだが、この世界で上手くいかなかったようだ。
この後、1929(昭和4)年に週間朝日に連載した『由比根元大殺記』で大衆作家として認めら、翌年から大阪毎日新聞と東京日日新聞に書きついだ『南国太平記』で文壇に不動の地位を気付いたといわれている。
よくは知らないが、直木についての解説など見ていると、奇行でも知られていたようだ、それは別として、直木の筆名が、三十一から一つずつ増えていく発想がおもしろいが、三十五からは名を改めることはなかった。その理由は「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だったからというのだから、又、面白いね~。
どちらにしても、直木の何よりの功績は、大衆文学の評価を高めたことであろう。
1935(昭和10)年に直木賞は芥川賞とともに第1回が選ばれたが、第1回受賞は、川口松太郎の鶴八鶴次郎』ほかで、因みに芥川賞は石川達三『蒼氓』であった。そして正賞の時計と副賞500円が送られたという。(アサヒクロニクル「週間20世紀」)。直木賞は、第二次大戦中の1945(昭和20)年から一時中断したが1949(昭和24)年に復活。第135回(2006年上半期)は、 三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』、森絵都『風に舞いあがるビニールシート』 が選ばれている。(第136回(2006年下半期) - 該当作品なし )。純文学の芥川賞は内容もお堅いが、直木賞のような大衆文学は内容が面白いので好きである。ただ、賞の対象は新人による大衆文学作品となっていたはずであるが、大衆文学の場合には、直木賞受賞後文筆によって生計を立てるに充分な筆力が勘案されがちなこともあって、現在では実質的に中堅作家に対する賞となっているといってもいいようである。
なお、『南国太平記』には、お由羅派につく調所笑左衛門(ずしょ しょうざえもん)という人物が出てくるが、この人物は、薩摩の倒幕に関わる費用調達に重要な役割を果たした人物のようだね~。この人物のことは以下、参考に記載の「調所笑左衛門広郷」が結構調べて書いているよ。
(画像は、直木三十五。直木三十五は、「著者小伝」の中で、自身の習癖として、机によりては書けず、臥て書く習慣あり。夜半一二時頃より、朝八九時まで書き、讀み、午後二三時頃起床する日多し。ーと有るように、寝転びながら原稿を書く癖があったようだ。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)。
参考:
直木三十五 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%94
早稲田大学と文学『南国太平記』
http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/n/na002/na002a01.htm
作家別作品リスト:直木 三十五
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person216.html
直木賞のすべて
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/index.htm
文藝春秋のホームページ
http://www.bunshun.co.jp/
春陽堂書店・書籍案内/黄門廻国記
http://www.shun-yo-do.co.jp/books/ISBN4-394-10701-6.html
南国太平記 - goo 映画(1960)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD22904/index.html
水曜ドラマ (NHK) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%9B%9C%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E_(NHK)
松岡正剛の千夜千冊『南国太平記』上・下
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0364.html
吉川英治 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E6%B2%BB 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person216.html#sakuhin_list_1
マキノ智子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%8E%E6%99%BA%E5%AD%90
直木三十五記念館
http://www.eonet.ne.jp/~karahoriclub/naoki/
調所笑左衛門広郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと)
http://homepage2.nifty.com/tanizoko/zusyo_syouzaemon.html