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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

平敦盛 (武将、平經盛の子) の忌日

2007-02-07 | 人物
今日(2月7日)は、平敦盛 (武将、平經盛の子) の忌日
平敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武士。平経盛の末子。平清盛の甥で、位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。1184(寿永3)年の今日(2月7日)、一ノ谷の戦い熊谷直実に討たれた。享年16歳であった。『平家物語』において、敦盛が直実に討たれる場面が有名であり、謡曲『敦盛』、歌舞伎『一谷嫩(ふたば)軍記』などの題材となった。
"祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し。
"『平家物語』の有名な冒頭部分である。清盛をはじめとした平家一族の隆盛から源平の戦い(治承・寿永の乱)による平家の滅亡までを壮大に描いた軍記物語である。
その源平の戦いの始まりは、1184(寿永3)年、神戸の東、生田の森(今の生田神社のあたり一帯・その東を旧生田川が流れていた)から、西、須磨の一ノ谷の付近までを戦場とした。
時は、1184(寿永3)年2月・・・、平家は、九州・四国の大軍をひきいて、福原の旧都に帰ってきて、生田の森を東門、一の谷を西門としてその守備に付いた。北の山ぎわより南の海の遠浅まで、大木や大石でバリゲートを築き、海には、平家の大きな船が並ぶ。源氏は、後白河法皇より、平家追討の命令を貰い、源範頼を大将にして、生田の森を攻めさせ、源義経は、土肥実平熊谷直実・直家父子らを従え、丹波路を急進撃して、三草山に置かれた平家の前線を一気に突破して西のかた、一の谷に向かって攻めかかった。守る平家、生田の森の大将は平知盛、弟の重衡、息子の知章である。一の谷の大将は平忠度、山の手方面は、夢野兵庫区参照)に平教経と兄の平通盛長田の奥、明泉寺付近には剛勇の将として知られている平盛俊が守っていた。
戦いは、2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。今日は、平敦盛 が主題なので一ノ谷の合戦以外「生田の戦い」(開戦・生田の戦い参照)他は省略する。兎に角、他の地が次々と負け戦となる中、西の地では鉢伏(はちぶせ)・鉄枴(てっかい)の山々が、海岸すぐにそそり立つ自然の要塞。義経軍は土肥実平が主力をひきい西回り、明石の浜から、垂水塩屋を進んで、苦戦している直実軍らを助けて西門攻める。義経は僅かの乗馬の部下とともに平忠度らの守る陣へ鵯越えの坂落としという平家の陣営を背後から一挙に突入する戦法で一の谷の合戦は源氏の快勝に終わる。惨敗を喫した平家方は、海岸へと味方の船を求め殺到した。直実も平家方を追って、若武者が一騎、沖合の船に向かって泳ぎ渡ろうとしているのを見つけた。
「練貫(ねりぬき)に鶴縫(ぬ)うたり直垂(ひたたれ)に、萌黄(もえぎ)の匂いの鎧着て、鍬形(くわがた)打ったる甲(かぶと)の緒しめ、黄金作りの太刀をはき切斑(きりふ)の矢負ひ、重藤(しげとう)の弓もって連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に、黄覆輪(きふくりん)の鞍置いて乗ったる武者一騎」・・・薄化粧して、かねぐろ(鉄漿黒=鉄分で歯を黒く染める事。公家の化粧の一種 )をした美少年・・・それが平敦盛の一の谷の合戦でのいでたちである。
海に入り船に乗ろうとした敦盛は、熊谷直実に挑戦されて浜に引き返し、討たれてしまう。同じ年頃の我が子を思い出しつつ、涙ながらに頸(くび)を切る直実。死を見通しながら最後まで武人として美しく戦おうとした敦盛。幸若舞『敦盛』では敦盛は討たれる前に名を名乗り、この後も延々と泣かせる話が続くが、『平家物語』では名乗らずに討たれてここで終わる。そして、直実は、若い敦盛を討った際に、若武者の腰の笛に気づいた。その戦の朝、陣中で聞いた美しい笛の音色は、この若武者のものであったのかと思いいたった。このことから、直実は、殺し合わねばならない戦の世に無常を感じ、出家を決意することになる(後に熊谷蓮生坊)。この笛が、鳥羽院より賜った小枝の笛』(謡曲では『若葉の笛』)と呼ばれるものであり、この笛だといわれているものが、須磨区の源平ゆかりの寺・須磨寺にある。(以下参考の源平ゆかりの寺・大本山 須磨寺参照)
『平家物語』は、多くの場面で武士達の直面した心の葛藤、武士である事から生まれる矛盾、東国と西国の武士の気質のの違いを見ることができる。しかし、そこに描かれた矛盾と差異そのものが、その後、武士の本質をめぐるさまざまな議論を生み出した。それは、「領主制論」といわれる武士の本質を惣領を中心とする主従関係で結ばれた農場経営者=領主である点に求めるか、又、「非領主制論」と呼ばれる、武芸を職能とする職能民であることに武士の特質を見出すかである。中世の社会の政治にたいする異なった見方がそこからうまれてくる。(、「領主制」、「非領主制」の事については、以下参考の「惣領制・武家独特の一族結合制度 」「歴史ちょっとだけ・網野史学(3)非農業民と天皇」などを参照するとよい)
武士達を新たな時代の担い手、「英雄」としてとらえる見方と、殺生・殺人を業(なりわい)と見る立場。親は子の、子は親の屍をのりこえて、あくまで戦う東国武士の荒々しく勇敢な気風に共感する人達、親の死に孝養ををつくし子の氏を歎く西国武士のやさしさに同感する人達。『平家物語』は、運命に立ち向かう人間のひたむきさが描かれている。
無骨者の源氏に対し雅の平氏というように、平家の者は代々文学・雅楽に長じていたが、この雅(みやび)を愛する血筋が、東国のような荒々しい武家への道ではなく彼らを貴族への道へと向かわせ、ひいては滅亡の道をたどることになったといえるだろう。義経の奇襲攻撃に平氏一門は大混乱に陥り、なりふり構わず我先にと沖の船に乗り込んで沖に逃げようとした。しかし、、元服はしたもののまだまだ戦には未熟な若武者たちが多く討ち取られている。敦盛もその中の1人であるが、直実に呼び戻されてもそのまま逃げれば逃げ延びられたであろう。だが敦盛はとって返し、戦って、討たれたのである。一の谷の合戦で見られるいでたちに似合わない強い武士の心を持っていたのだね~。
神戸の須磨には源平ゆかりの史跡がたくさんある。以下のホームページが参考になるよ。
義経・神戸源平物語
http://kobe-genpei.jp/index.html
(画像は、マイコレクションの須磨寺発行絵葉書「源平錦絵・義人是久集(ぎじんコレクション)より、無官大夫敦盛・国定画。一の谷合戦のときの姿。)
参考:
平敦盛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%95%A6%E7%9B%9B
能『敦盛』
http://funabenkei.daa.jp/noh/atsumori.html
平家琵琶ホームページ/
http://homepage3.nifty.com/heikebiwa-arao/index.html
源平ゆかりの寺・大本山 須磨寺
http://www.sumadera.or.jp/
義経・神戸源平物語
http://kobe-genpei.jp/index.html
平家物語 総目次
http://www.st.rim.or.jp/~success/heike_index.html
英雄百人一首 (緑亭川柳(川柳金蔵) 国文学研究資料館/平敦盛
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/syouzou/ta01/html/thumta01.htm
平家物語のための 古語辞典
http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/kogozitenn1.htm
惣領制・武家独特の一族結合制度
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n425.htm
歴史ちょっとだけ・網野史学(3)非農業民と天皇
http://ww2.tiki.ne.jp/~h-hidaka/newpage43.htm
歌舞伎素人講釈・作品研究(目次・一谷嫩軍記他)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhinex.htm
義経の実像一の谷合戦における鵯越の逆落とし
http://www2.ocn.ne.jp/~umeno87/
三草山~鵯越・一ノ谷への道険し!
http://www5e.biglobe.ne.jp/~crows-up/trip-ichinotani.html
明泉寺ホームページ
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/nagaland/
謡本と浄瑠璃正本
http://www.suma.kobe-wu.ac.jp/geinou/ten_jyosetu2.html
■その他
http://www.geocities.jp/muramiki2002/b_mes.html