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大海人皇子が即位し、第40代天皇・天武天皇となる

2007-02-27 | 歴史
673年の今日(2月27日)大海人皇子が即位し、第40代天皇・天武天皇となる。 
天武天皇(てんむてんのう)は、『皇統譜』によると第40代に数えられる天皇。在位は、弘文天皇2年2月27日(673年3月20日) ~朱鳥元年9月9日(686年10月1日)。和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。この和風諡号は極めて道教的な諡号である。
即位前の名は大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、おおさまのみこ)。系図上では、舒明天皇の第2皇子で母は宝皇女(皇極天皇)、天智天皇の同母弟となっている。
壬申の乱」にて天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を滅ぼして、弘文天皇2年2月27日(673年3月20日) 飛鳥浄御原宮で即位する。即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指す。さらに、天武13年(684)10月には、旧来の氏姓制度の改革として八色の姓(やくさのかばね)を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。このような、天武天皇の事跡の多くは『日本書紀』に述べられており、天武天皇は、才能に恵まれ、武徳に優れ天文・占星の術を得意としたとある。『日本書紀』について、通説では「壬申の乱」で天智王朝を倒して勝利を得た天武天皇が自己の王朝の正当性を主張するために編纂した政治的な書であるとされている。そして、この『日本書紀』編纂の中心人物は天武天皇の息子の舎人親王であることから、潤色が加えられているとする見解もある。また同書では、当初から兄・天智天皇の皇太弟であると記されているが、大友皇子の立太子の事実を否定し、天皇の皇位継承を正当化する意図があるとする意見もある。何時の時代でも、歴史は、後の時代のものが前の時代のことも書く。そして、後の時代のものが、立派であるように書くのは、中国4000年の歴史を見れば判る。
672年に起きた「壬申の乱」は、叔父(大海人皇子)と甥(大友皇子)の間で争われた日本古代の最大の内乱といえる。そして、この争いは、あの豊臣・徳川の関ケ原の戦いと同様で、決戦場も同じ関ケ原であり、この天下分け目の戦いの結果、政権の落ち着き先が決まった・・・ということもよく似てる。
戦前の教科書には、663年(天智2)の朝鮮半島・白村江(大韓民国支配地域の東津江下流と推測される)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と新羅連合軍との戦いである「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)や、「壬申の乱」については、全く載っていなかったようだ。今回は、「白村江の戦い」のことには触れないが、「壬申の乱」が何故載らなかったかというと、天智天皇の後はすぐに天武天皇になるとされていたが、その間に、大友皇子が即位したであろうという可能性が非常に強いにもかかわらず、即位はないように、『日本書紀』には書かれている。(弘文天皇記の段は存在しない)しかし、その他の大日本史 などでは、大友が即位し、大友天皇なり、弘文天皇になったとしている。幕末から明治にかけての国学高揚の気を受けて、明治政府は、大友皇子に「弘文天皇」という諡(おくり名)を与え、1200年ぶりに第39代天皇と認定した。
大友皇子即位説参照)。
もし、大友皇子が即位して、在位したということになれば、大友の近江王朝を武力で転覆し、天皇(大友)を自殺に追いやったのは、のちの天武天皇となる大海人皇子であり、それは、反乱であり、行為の簒奪(さんだつ)ということになるのである。『日本書紀』は、その事実を隠しているといわれる由縁である。
また、この壬申の乱」を招いた原因に、『万葉集』の女流歌人額田王(ぬかだのおおきみ)をめぐっての天智天皇と大海人皇子の二人の兄弟の確執が逢ったとも言われている。
争乱の起こる4年前、天皇の一行が近江の蒲生野に遊んだおりに取り交わされたという愛の歌がある。
それが、以下参考の「千人万首―よよのうたびと―」の額田王にある以下の歌である。
天皇の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作る歌、
「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る」
これに対する大海人皇子の返歌、
「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも」
当時の宮廷では、1人の女性がいろいろな男性と交渉を持つのは普通のことであった。宮廷の結婚も、異母兄妹、伯母伯父、姪が一緒になったりもした。だから1人の女性を争って、その三角関係から壬申の乱が起こったとは思えない。
額田王は大海人皇子(後の天武天皇)に愛されて、十市(とおち)皇女を産み、後に天智天皇に愛され側室になったと考えられている。大友皇子の妃が十市皇女である。大友皇子と十市皇女の間には葛野王(かどののおおきみ)という子どもが生まれている。そして、この葛野王が生まれてから、天智天皇はやっと大友皇子を後継者とすることを決意したとされている。つまり、可愛い孫の顔を見て、もう、天下を弟の天武天皇に渡すのが惜しくなって、子の大友皇子を天皇としたとされている。そこには、その後継者が天武天皇の血を引く葛野王であるなら、天武天皇も了解してくれるのではないかという思惑が天智帝にあったのではないかと推測されるのである。この大友皇子と十市皇女を結びつけたのは、額田王ではなかったかと推測される。自分の前の恋人の間の子である十市皇女と後の恋人の天智帝の子大友皇子を結びつけば、不仲の天武と天智も上手く行くと考えたのであろう。しかし、この計算は、あの意志の強い、誇りの高い持統天皇(天智天皇の娘で天武天皇の妃となった人)の存在を無視することになったのだ。皇位継承をめぐって夫・大海人皇子と父・天智天皇の仲が悪化していた。大海人皇子は東宮(皇太子)を辞し、天智の死後は大和国吉野に逃れた。持統は大海人皇子とともに吉野へ落ち、壬申の乱の間、吉野で過ごした。持統は、夫が即位するとその皇后となった。
(画像は、飛鳥の春の額田王。安田靫彦(やすだゆきひこ)筆。大化の改新から壬申の乱にいたる古代の激動期の英雄、天智天皇と大海人皇子・・この二人の兄弟の愛をうけた宮廷のヒロイン額田王は万葉随一の女流歌人として知られる。画像は、日本史探訪、角川文庫より)
参考:
天武天皇 -Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/天武天皇
千人万首―よよのうたびと―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin_f.html
第39代弘文天皇
http://inoues.net/ohtu/koubuntenno.html
15.天智と天武は兄弟ではない!! 真説・壬申の乱
http://inoues.net/ohtu/koubuntenno.html
大海 人 と 天 照
http://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/ddk/kou15.htm
歴史教科書問題1
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/kyoukasyomondai.htm
心の経営コンサルタント(中小企業診断士)白倉信司の月刊コラム第78号
http://csk.web.infoseek.co.jp/koramu-73.html
白村江の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
大日本史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2