goo blog サービス終了のお知らせ 

今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ルバング島で小野田元日本軍少尉を発見 した日

2007-02-20 | 歴史
1974(昭和49)年の今日(2月20日)は、ルバング島で小野田元日本軍少尉を発見した日。
小野田 寛郎(おのだ ひろお)は、日本陸軍・少尉で情報将校だった。陸軍中野学校二俣分校卒。1945(昭和20)年の太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰国を果たした。
ルバング島(Lubang Island)はフィリピンの中部ミンドロ島の北西沖の南シナ海に浮かぶ島である。マニラから南西へ、直線で約150kmと比較的近い位置にある。ルバング島は淡路島の半分ほどの小島だ。
小野田 は、上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、1942(昭和17)年、現役兵として歩兵第61連隊に入隊。陸軍予備士官学校に入学、卒業後、当時軍の上層学校だった陸軍中野学校二俣分校にて、情報将校として育成されされた後、1944(昭和19)年12月、遊撃戦の指導の任を与えられフィリピンのルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍は小野田少尉を相手にせず、米軍上陸後は簡単に撃破されて山間部に逃げ込んだが、小野田少尉は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開していた。
しかし、1945(昭和20)年8月、戦争が終わった後も、任務解除の命令が届かなかった為、部下(赤津一等兵、島田庄一伍長、小塚金七1等兵)と共に戦闘状態を継続していた。その為、日本では同年9月に戦死公報を出される。
しかし、1949(昭和24)年このうちの赤津一等が兵投降し、1951(昭和26)年に帰国したことにより、このグループの存在が明らかになり、翌1952(昭和27)年、朝日新聞の辻豊記者が「戦争は終わりました。出てきてください」と叫びながらジャングルの中を歩き回ったが、小野田らは米軍の謀略・・と疑い出てこなかった。
1954(昭和29)年、地元の軍隊と武力衝突し、島田一元伍長が戦死。その遺体が発見される。1959(昭和34)年に小野田氏の兄が捜索に向ひ、旧制一高の寮歌を歌つて本人であることを知らせようとしたが、小野田氏は信用せず、この時も出て来なかった。そのため、残りの2人も1954(昭和29)年の戦闘で亡くなつたものとされた。
しかし、1972(昭和47)年1月、アメリカ領グアム島横井庄一元伍長が発見され、日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
1972(昭和47)年10月、フィリピンのルバング島にて地元警察軍に日本兵が射殺され、この事件を受け、援護局職員及び小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルパング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵である事を確認され、小野田少尉の捜索も行われるが発見には至らなかった。(後に元少尉は捜索隊の存在を認知しており、密林の中に兄の姿を見ていた事を告白している)。 ルバング島の山中に居残り、最後まで一緒だった小塚金七1等兵が、射殺された後も小野田 は1人で逃げ切った。
この一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、1974(昭和49)年2月20日に彼との接触に成功。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承。かっての上司である谷口義美元少佐から任務解除命令が下り、小野田が銃を置き、山を下りたのは、同年3月9日であり、この時、小野田にとっての戦争は終わったが、もう、52歳になろうとしていた。19歳で、入隊し、22歳で敗戦色濃いフィリピン戦線に配属され、ルバング島に潜伏してから既に30年の歳月が流れていた。
1972(昭和47)年1月発見された横井庄一軍曹の場合は、ジャングルや自ら作った地下壕などで生活をしながらひたすら救出されるのを待っていた感じであるが、小野田少尉の場合は30年間、ずっと戦い続けていたのだ。
救出された「最後の日本兵」のもとに、平和ボケした日本から、報道陣が駆けつけた。
「なぜ、30年間も山の中に?」・・・。戦争を知らない記者たちに、小野田は射抜くような眼光をむけ、低く殺した声で「任務解除の命令がなかったからです」と答えたという。
遊撃戦士の幹部養成機関であった陸軍中野学校二俣分校卒の小野田に与えられた任務は、「敵地に残って情報収集を続けよ」だった。
日本政府が大捜索隊を送り込んだ。兄弟も加わっていたが、小野田は、藪の蔭から見守るだけで、「たとえ、両親に『帰ってこい』といわれても、俺は軍の命令で戦争に来ているんだ。謀略かもしれないし」と突っ張っていたという。
軍国主義の犠牲?判断の誤り?・・・人はいろいろな見方をするであろうが、良かれ、悪しかれ、今の人間に、一度やると決めた任務をこれほど片意地に貫き通す人がいるだろうか。資源も何もない日本が、誤った軍部の判断からアメリカ相手に途方もない戦争をしかけ、敗戦したとはいえ、あそこまで、戦えたのは、こんな意志の強固な軍人がいたからだろう。
今の世代の日本人は、屁理屈ばかりは立派に言えるようになったが何とも軟弱になった、戦後の日本人、特に、口先だけの政治家には、小野田氏の爪の垢でも煎じて飲ませたいものだ。
帰還後、「動物園のパンダみたいにジロジロ見られ、面白がられることにうんざりした」といって、兄の勧めもあり、帰国後結婚した妻とともにブラジルに渡って、牧場経営に取り組み。軌道に乗せた。その後、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めたとして『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰(以下参考の小野田自然塾参照)。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けているという。2004(平成16)年12月17日、日本人として初めてサントス・ドゥモン勲章を、更に2005(平成17)年11月3日、藍綬褒章を受章した。 妻・町枝さんは現在、日本女性の会会長だそうである。
30年の孤独に耐え、ルバング島から生還した小野田元少尉の自伝。『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)が出版されている。ルバング島での冒険家の鈴木紀夫と小野田寛郎の出会いから投降までの話などは以下を見るとよく分かる。
JOG(437) 小野田寛郎の30年戦争↓
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog437.html
(画像は、小野田 寛郎 (著)『たった一人の30年戦争』
参考:
小野田寛郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E
財団法人小野田自然塾
http://www.andec.com/onoda/
JOG(437) 小野田寛郎の30年戦争
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog437.html
淡路島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%B3%B6
褒章
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%92%E7%AB%A0
今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/03/10.html