今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「太子会」の日

2007-02-22 | 行事
今日は何の日~毎日が記念日~を見ると、今日(2月22日)は、「太子会」の日とあった。
622(推古天皇30)年2月22日聖徳太子が斑鳩宮で薨去した。そのことから、聖徳太子ゆかりの広隆寺法隆寺(3月22日)・四天王寺(4月22日)等では聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われているというのだ。
こんな日があることを知らなかったのでNETで調べてみると、財団法人聖徳太子会(以下参考の聖徳太子|財団法人聖徳太子会参照)なるものがあった。同財団HPを見ると、この財団は、昭和天皇の皇后の父宮久邇宮邦彦殿下によって和の原理をもって、世界平和に寄与する目的のもと、礎を確立され、出発当時、原敬内閣総理大臣、徳川貴族院議長、中橋文部大臣、床次内務大臣等を顧問とし、会長・侯爵徳川頼貞、副会長・渋沢栄一として、たゆまざる国民教化に邁進してきた団体であります。"・・・とあった。では、何をしているのかと思うと”聖徳太子の歴史鴻業(こうぎょう=大きな事業。十七条憲法、ゆかりのお寺、聖徳太子の年表)を内外に宣揚(せんよう=広く世の中にあきらかに示すこと)弘布(ぐぶ=仏法を広めること)し,世界平和の実現に寄与する目的で1916(大正)5 年に設立された。”・・と言うのである。
聖徳太子は、我が国の歴史上の人物の中でも最も良く知られている人物かもしれないが、その人の生年や没年などのいずれもが不確かで非常に謎の多い人物でもある。
太子は、父用明天皇と、穴穂部間人皇女との間に生まれた。本名は厩戸(うまやと)で、厩戸の前で出産したことによるとの伝説があるが、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力。別名、豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子は後世につけられた尊称であるため、現在、日本の学校教育では正称である「厩戸王」と呼んでいる。太子の忌日622(推古天皇30)年2月22日は『上宮聖徳法王帝説』に記述されている日附であり、『日本書紀』では621(推古天皇29)年2月5日となっているなど、聖徳太子に関する謎は多く、聖徳太子は存在すらしなかったのではないかとする説もあるほどである。
6,7世紀の東アジア、中国・朝鮮半島の政治的緊張は、日本にも大きな影を投げかけようとしていた。理想に燃える青年政治家聖徳太子は、律令・文化国建設に向けて立ち上がる。蘇我氏の根拠地・飛鳥を離れ、都を新天地・小墾田(おはりだ)へ遷(うつ)した聖徳太子は、政治改革に着手。その太子の夢は冠位十二階十七条憲法の制定となって実を結ぶ。蘇我氏権力からの独立を勝ち取った聖徳太子は、外交面でも目覚しい成果をあげてゆく。小野妹子等遣隋使の派遣。その返礼の使者裴世清の来日。ここに太子政治はその頂点を迎えるが・・・。やがて、思いがけない隋の敗戦・滅亡は聖徳太子にも大きなショックを与えた。そして、太子は政治の第一線を退き、思索と著作に心を傾け、仏教経典の注釈書『三経義疏』をはじめ、我が国初の歴史書『天皇記』「国記』の編纂など、精力的な著作活動を続けるようになった。その立場は次第に孤立を深め、絶望と虚無におそわれていく・・。聖徳太子研究の第一人者とも言われる哲学者梅原猛氏の大作・聖徳太子(4部作)」を読んで、私は感動した。
歴史学者に大きな影響を与えた津田左右吉などは太子は余りにも偉大すぎる。したがって、『日本書紀』をはじめとする太子の伝誦は全て偽であり、それは後世の創作であるとしている。これに対して、梅原氏は、日本書紀をはじめとする太子に関する伝誦は勿論多少の誇張はあれ、ほぼ真実であると考えなければならないとし、太子は、1万年をさかのぼる日本の歴史の中で比類なき人格として、毅然として光っている。そして、それは、一つの日本のエポックを作っている。太子以前と太子以後の日本は別の日本になった。倭の王から日本の天皇、そして、国名も君主名も変わったように、日本は氏族制度の国家から律令制度の国家に大きく変わったと説く。歴史で教わった偉大な聖徳太子・・しかし、聖徳太子亡き後、その子山背大兄王ら聖徳太子一家が何故惨殺されなければならなかったかのか?。聖徳太子に興味のある人には、是非一読をお奨めの書である。
聖徳太子は信仰の対象として、その事蹟には多くの潤色が含まれている。 教科書での呼称を「聖徳太子」から「厩戸王」に移すなど、これを歴史上の人物(厩戸王)として見直す動きは進んでいるそうだが、その困難の理由として、①文献史料の不足 ②物証の不足③信仰の壁 の3つを挙げることができるというが、中でも、大きな障壁は③らしい。聖徳太子は一宗派の信仰ではなく、仏教であるか神道であるかを問わず、日本史上もっとも偉大な人物という信仰が拡がっている。たとえ歴史の問題のみに切り離そうとしても、聖徳太子は日本の律令国家誕生の先駆者であるという考えが深く根付いているからだそうだ 。
聖徳太子建立七大寺として、 法隆寺四天王寺中宮寺橘寺広隆寺法起寺・葛木寺(奈良県橿原市和田町)があるほか、聖徳太子とゆかりのある寺や寺院もいくつかあるが、その中で、我が地元である兵庫県にもかなり、聖徳太子とゆかりの深い寺が2寺ある。その一つが、兵庫県揖保郡太子町鵤にある斑鳩寺(いかるがでら)である。(正しい音読み、「はんきゅうじ」だそうだ)。この寺は「法隆寺の別院として播磨の国に建てられた寺」とされている。そして、太子が建立した奈良・法隆寺の所在地「斑鳩町」と同じ寺名であるばかりか、斑鳩寺の建立地も「太子町鵤(いかるが)」である。
少し長くなったので、ブログの性格上、紙面(字数)に制限があり、このページはここで終わる。
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続・「太子会」の日
(上記画像は、聖徳太子フリー百科事典Wikipediaより)

続・「太子会」の日

2007-02-22 | 行事
「太子会」の日・・続き
聖徳太子が605(推古天皇13)年に飛鳥の政界から退いて斑鳩宮(いかるがのみや)に住んで間もなく宮の西に原初の法起寺がつくられた。
『日本書紀』によれば、606 年(推古14)、聖徳太子が勝鬘経(しょうまんぎょう)と法華経を講説したとき、推古天皇はその功として皇子に播磨国揖保郡(いぼのこおり)の水田百町を与えた(『法隆寺縁起資財帳』には、このとき与えた水田の広さを219 町1段82歩と記す)。皇子はその土地を「鵤荘(いかるがのしょう)と名付け、斑鳩寺(法隆寺)に施入したという。それが現在の太子町と龍野市の一部にまたがる鵤荘と呼ばれる土地であり、以後、寺地は法隆寺領鵤荘として発展を遂げ、13~14世紀ごろには360余町を領有して、法隆寺の講料・会料を支える経済的基盤となったという。 昔は七堂伽藍、数十の坊庵が甍をならべ壮麗を極めたが、1542 (天文10)年、赤松山名の争乱の戦禍によって惜しく焼失した。 その後、楽々山円勝寺の昌仙法師らによって徐々に再建され、播磨地方の太子信仰の中心として栄えてきたという。 講義の模様は、斑鳩寺が所蔵する絹本(けんぽん)着色の仏画として描かれている。国重要文化財で鎌倉前期の作とみられる「勝鬘経講讃図」は、太子1 人ではなく、5 人の縁者らも描かれている。太子の息子・山背大兄王、師とあがめる高句麗(こうくり)僧・慧慈(えじ)、百済(くだら)博士・学呵(がつか)、蘇我馬子(そがのうまこ)、小野妹子が太子を取り囲んでいる。
約1400年の歴史を持つ聖徳太子ゆかりの地、聖徳太子の御廟(お墓)のある大阪府太子町、法隆寺の寺領のあった兵庫県太子町、法隆寺をはじめ聖徳太子ゆかりの歴史遺産が残る奈良県斑鳩町の3 町は、聖徳太子ゆかりの地友好都市の提携を行っているそうだ。
聖徳太子の命日に行われる縁日法要「太子春会式」が毎年、斑鳩寺境内で行われているようだ。(太子町観光協会HP参照)
兵庫県太子町・斑鳩寺から北へ10分ほどの所に、稗田(ひえた)神社がある。稗田神社は606(推古天皇14)年勅願により造建されたといわれ、古事記を編纂した稗田阿礼を祭神とする説と、聖徳太子妃である膳大夫人(膳大郎女(かしわでのおおいらつめ))を祭神とする二つの説があるそうだ。いずれにしても、中世において法隆寺・斑鳩寺と稗田神社は密接な関係があり、鵤荘開発過程において稗田神社が勧請されたこと、鵤荘斑鳩寺成立後、鎮守神的な役割を果たすようになったこと、法隆寺・斑鳩寺の管轄に置かれたことは確かと言えるようだ。
兵庫県の太子町は、兵庫県南西部(西播磨地域)に位置する町で、揖保郡に属する。揖保郡旧3町(揖保川町・新宮町・御津町)が平成17年(2005年)10月1日に龍野市と合併してたつの市になった為、揖保郡は太子町単独となった。
太子町~姫路市にまたがる標高165.1mの山「檀特山」がある。山頂にある大きな岩には伝説があり、岩のくぼみは応神天皇の御沓・御杖の跡、または聖徳太子が馬に乗って登り修行をした時についた蹄の跡と言われる。 (以下参考の檀特山参照)このように、このあたりは、非常に聖徳太子とのゆかりが深いが、兵庫県には、もう一つ、有名なところで、加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)が聖徳太子とゆかりの深い寺とされている。
伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼる。蘇我氏物部氏の争いを避け、高麗出身の僧・恵便は播磨の地に身を隠していた。聖徳太子が播磨の地にいた恵便の教えを受けるために播磨の地を訪ね建立、その後718(養老)年、身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したという。創建時は「刀田山四天王聖霊院」という寺号であったものを、1112(天永3)年に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。
鶴林寺には、現に奈良時代の銅造聖観音像があり、金堂本尊の薬師三尊像は平安時代前期・10世紀にさかのぼる古像であることからみて、かなり古い歴史をもつ寺院であることは間違いない。現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有するが、鎌倉・室町期には寺坊だけで30以上を有する規模であったという。(以下参考の鶴林寺の「鶴林寺の歴史」が詳しい。)
奈良の元興寺の前身である法興寺(本元興寺とも飛鳥寺とも呼ばれる)は、日本で最初の本格的仏教寺院である。敏達天皇は当時、皇后(後の推古天皇)に仏教の公認を願われたが、国論の不一致を理由に、その要望を聞き入れなかったが、数年後、国内に災害があったので、稲目の子の蘇我馬子が卜(占い)によって仏教の布教を願い出た。そして、許可が出たので馬子は仏道の修行者を探し求めたところ、播磨に高麗僧 恵便(えべん)と尼の法明がいたので、それを師として、出家した三人の尼を修業させたという。(詳しくは以下参考の「奈良の昔話元興寺(1)仏教伝来と法興寺」参照)
日本史の表舞台にも出てこない高麗僧・恵便であるが、日本の仏教を広めた元祖であったの」かもしれないね~。
地元のことのなったので、少々、くどくなってしまったが、それでも、まだまだ書き足りない事があるがこれで止めておこう。兎に角、播磨の地と聖徳太子のゆかりが深いことだけは分かっていただけたかな・・・。
(画像は、鵤荘の「筑紫大道」。法隆寺領播磨国鵤荘の1329(嘉永4)年絵図(斑鳩寺蔵)には、十条と十一条の境を東西に走る道路に「筑紫大道」という注記がある。1983年6月、この地点に相当する兵庫県龍野市誉田町福田(地図)の道路予定地を発掘したところ、地表の数10cm下から古い道路敷画発見された。[写真]。幅約6m、砂と土に河原石を混ぜて突き固め、両側に幅40~60cmの側溝がある。絵図の作成年代から見て、この道は、文永の役に急造された軍事道路だとする説が唱えられている。写真兵庫県教育委員会・太子町教育委員会。この画像は、週間朝日百科『日本の歴史」より借用)
参考:
聖徳太子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
聖徳太子|財団法人聖徳太子会
http://shotokutaishikai.seesaa.net/
聖徳太子ゆかりの寺
http://bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/temple/cover2.htm
聖徳太子ゆかりの宮跡
http://bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/miyadokoro/cover1.htm
兵庫県/播磨国風土記
http://web.pref.hyogo.jp/area/c_harima/area_00007.html
兵庫県の山々
http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/yama.htm
古代史獺祭 上宮聖徳法王帝説 フレーム版
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/taisetsu/frame/taisetsu_frame.htm
原内閣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%96%A3
山背大兄王の謎
http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
氏姓制度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%A7%93%E5%88%B6%E5%BA%A6
伽藍 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%97%8D
赤松氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F
斑鳩寺の仏像
http://nakaharima.jp/mypage/whcidb/tais/tais012.htm
斑鳩寺・聖徳太子ゆかりの天台宗寺院[神戸観光壁紙写真集]
http://kobe-mari.maxs.jp/taishi/ikaruga.htm
神奈備の兵庫県神社名鑑
http://www.kamnavi.net/ichiranhyogo.htm
大阪府太子町 の公式ホームページ
http://www.town.taishi.osaka.jp/
太子町HP
http://www.geocities.jp/itx59/taishityou/taishitoppage.htm
奈良県斑鳩町HP
http://www.town.ikaruga.nara.jp/
太子町 (兵庫県) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AD%90%E7%94%BA_(%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C)
兵庫県/播磨国風土記
http://web.pref.hyogo.jp/area/c_harima/area_00007.html
稗田神社秋祭り
http://www.h-matsuri.com/mitsu/ikaruga.htm
稗田神社
http://nakaharima.jp/mypage/whcidb/tais/tais014.htm
古事記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
檀特山(165.1m)姫路市・太子町   
http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/dantoku.htm
鶴林寺
http://www.geocities.jp/askawa2/kakurinji/kakurin.htm
増位山・随願寺[神戸観光壁紙写真集]
http://kobe-mari.maxs.jp/himeji/zuiganji.htm
[PDF]高麗僧・恵便・播磨の地ゆかりサミット
http://www.city.himeji.hyogo.jp/seisaku/yumeplan/soft/kouryosumit.pdf
[PDF] 六世紀の倭と朝鮮半島諸国
http://www.mofat.go.kr/pdffiles/1-05.pdf
奈良の昔話元興寺(1)仏教伝来と法興寺
http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-85.html
筑紫大道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%B4%AB%E5%A4%A7%E9%81%93
歴史資料館 法隆寺領鵤荘と斑鳩寺 「法隆寺領鵤荘と斑鳩寺」より鵤荘・弘山荘・小宅荘の絵図
http://www.town.taishi.hyogo.jp/main.asp?fl=show&id=1000002685&clc=1000000041&cmc=1000000167&cli=1000000702&cmi=1000000704