今日は何の日~毎日が記念日~を見ると、今日(2月22日)は、「太子会」の日とあった。
622(推古天皇30)年2月22日聖徳太子が斑鳩宮で薨去した。そのことから、聖徳太子ゆかりの広隆寺・法隆寺(3月22日)・四天王寺(4月22日)等では聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われているというのだ。
こんな日があることを知らなかったのでNETで調べてみると、財団法人聖徳太子会(以下参考の聖徳太子|財団法人聖徳太子会参照)なるものがあった。同財団HPを見ると、この財団は、昭和天皇の皇后の父宮久邇宮邦彦殿下によって和の原理をもって、世界平和に寄与する目的のもと、礎を確立され、出発当時、原敬内閣総理大臣、徳川貴族院議長、中橋文部大臣、床次内務大臣等を顧問とし、会長・侯爵徳川頼貞、副会長・渋沢栄一として、たゆまざる国民教化に邁進してきた団体であります。"・・・とあった。では、何をしているのかと思うと”聖徳太子の歴史鴻業(こうぎょう=大きな事業。十七条憲法、ゆかりのお寺、聖徳太子の年表)を内外に宣揚(せんよう=広く世の中にあきらかに示すこと)弘布(ぐぶ=仏法を広めること)し,世界平和の実現に寄与する目的で1916(大正)5 年に設立された。”・・と言うのである。
聖徳太子は、我が国の歴史上の人物の中でも最も良く知られている人物かもしれないが、その人の生年や没年などのいずれもが不確かで非常に謎の多い人物でもある。
太子は、父用明天皇と、穴穂部間人皇女との間に生まれた。本名は厩戸(うまやと)で、厩戸の前で出産したことによるとの伝説があるが、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力。別名、豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子は後世につけられた尊称であるため、現在、日本の学校教育では正称である「厩戸王」と呼んでいる。太子の忌日622(推古天皇30)年2月22日は『上宮聖徳法王帝説』に記述されている日附であり、『日本書紀』では621(推古天皇29)年2月5日となっているなど、聖徳太子に関する謎は多く、聖徳太子は存在すらしなかったのではないかとする説もあるほどである。
6,7世紀の東アジア、中国・朝鮮半島の政治的緊張は、日本にも大きな影を投げかけようとしていた。理想に燃える青年政治家聖徳太子は、律令・文化国建設に向けて立ち上がる。蘇我氏の根拠地・飛鳥を離れ、都を新天地・小墾田(おはりだ)へ遷(うつ)した聖徳太子は、政治改革に着手。その太子の夢は冠位十二階と十七条憲法の制定となって実を結ぶ。蘇我氏権力からの独立を勝ち取った聖徳太子は、外交面でも目覚しい成果をあげてゆく。小野妹子等遣隋使の派遣。その返礼の使者裴世清の来日。ここに太子政治はその頂点を迎えるが・・・。やがて、思いがけない隋の敗戦・滅亡は聖徳太子にも大きなショックを与えた。そして、太子は政治の第一線を退き、思索と著作に心を傾け、仏教経典の注釈書『三経義疏』をはじめ、我が国初の歴史書『天皇記』「国記』の編纂など、精力的な著作活動を続けるようになった。その立場は次第に孤立を深め、絶望と虚無におそわれていく・・。聖徳太子研究の第一人者とも言われる哲学者梅原猛氏の大作・聖徳太子(4部作)」を読んで、私は感動した。
歴史学者に大きな影響を与えた津田左右吉などは太子は余りにも偉大すぎる。したがって、『日本書紀』をはじめとする太子の伝誦は全て偽であり、それは後世の創作であるとしている。これに対して、梅原氏は、日本書紀をはじめとする太子に関する伝誦は勿論多少の誇張はあれ、ほぼ真実であると考えなければならないとし、太子は、1万年をさかのぼる日本の歴史の中で比類なき人格として、毅然として光っている。そして、それは、一つの日本のエポックを作っている。太子以前と太子以後の日本は別の日本になった。倭の王から日本の天皇、そして、国名も君主名も変わったように、日本は氏族制度の国家から律令制度の国家に大きく変わったと説く。歴史で教わった偉大な聖徳太子・・しかし、聖徳太子亡き後、その子山背大兄王ら聖徳太子一家が何故惨殺されなければならなかったかのか?。聖徳太子に興味のある人には、是非一読をお奨めの書である。
聖徳太子は信仰の対象として、その事蹟には多くの潤色が含まれている。 教科書での呼称を「聖徳太子」から「厩戸王」に移すなど、これを歴史上の人物(厩戸王)として見直す動きは進んでいるそうだが、その困難の理由として、①文献史料の不足 ②物証の不足③信仰の壁 の3つを挙げることができるというが、中でも、大きな障壁は③らしい。聖徳太子は一宗派の信仰ではなく、仏教であるか神道であるかを問わず、日本史上もっとも偉大な人物という信仰が拡がっている。たとえ歴史の問題のみに切り離そうとしても、聖徳太子は日本の律令国家誕生の先駆者であるという考えが深く根付いているからだそうだ 。
聖徳太子建立七大寺として、 法隆寺・四天王寺・中宮寺・ 橘寺・広隆寺・法起寺・葛木寺(奈良県橿原市和田町)があるほか、聖徳太子とゆかりのある寺や寺院もいくつかあるが、その中で、我が地元である兵庫県にもかなり、聖徳太子とゆかりの深い寺が2寺ある。その一つが、兵庫県揖保郡太子町鵤にある斑鳩寺(いかるがでら)である。(正しい音読み、「はんきゅうじ」だそうだ)。この寺は「法隆寺の別院として播磨の国に建てられた寺」とされている。そして、太子が建立した奈良・法隆寺の所在地「斑鳩町」と同じ寺名であるばかりか、斑鳩寺の建立地も「太子町鵤(いかるが)」である。
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続・「太子会」の日
(上記画像は、聖徳太子フリー百科事典Wikipediaより)
622(推古天皇30)年2月22日聖徳太子が斑鳩宮で薨去した。そのことから、聖徳太子ゆかりの広隆寺・法隆寺(3月22日)・四天王寺(4月22日)等では聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われているというのだ。
こんな日があることを知らなかったのでNETで調べてみると、財団法人聖徳太子会(以下参考の聖徳太子|財団法人聖徳太子会参照)なるものがあった。同財団HPを見ると、この財団は、昭和天皇の皇后の父宮久邇宮邦彦殿下によって和の原理をもって、世界平和に寄与する目的のもと、礎を確立され、出発当時、原敬内閣総理大臣、徳川貴族院議長、中橋文部大臣、床次内務大臣等を顧問とし、会長・侯爵徳川頼貞、副会長・渋沢栄一として、たゆまざる国民教化に邁進してきた団体であります。"・・・とあった。では、何をしているのかと思うと”聖徳太子の歴史鴻業(こうぎょう=大きな事業。十七条憲法、ゆかりのお寺、聖徳太子の年表)を内外に宣揚(せんよう=広く世の中にあきらかに示すこと)弘布(ぐぶ=仏法を広めること)し,世界平和の実現に寄与する目的で1916(大正)5 年に設立された。”・・と言うのである。
聖徳太子は、我が国の歴史上の人物の中でも最も良く知られている人物かもしれないが、その人の生年や没年などのいずれもが不確かで非常に謎の多い人物でもある。
太子は、父用明天皇と、穴穂部間人皇女との間に生まれた。本名は厩戸(うまやと)で、厩戸の前で出産したことによるとの伝説があるが、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力。別名、豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子は後世につけられた尊称であるため、現在、日本の学校教育では正称である「厩戸王」と呼んでいる。太子の忌日622(推古天皇30)年2月22日は『上宮聖徳法王帝説』に記述されている日附であり、『日本書紀』では621(推古天皇29)年2月5日となっているなど、聖徳太子に関する謎は多く、聖徳太子は存在すらしなかったのではないかとする説もあるほどである。
6,7世紀の東アジア、中国・朝鮮半島の政治的緊張は、日本にも大きな影を投げかけようとしていた。理想に燃える青年政治家聖徳太子は、律令・文化国建設に向けて立ち上がる。蘇我氏の根拠地・飛鳥を離れ、都を新天地・小墾田(おはりだ)へ遷(うつ)した聖徳太子は、政治改革に着手。その太子の夢は冠位十二階と十七条憲法の制定となって実を結ぶ。蘇我氏権力からの独立を勝ち取った聖徳太子は、外交面でも目覚しい成果をあげてゆく。小野妹子等遣隋使の派遣。その返礼の使者裴世清の来日。ここに太子政治はその頂点を迎えるが・・・。やがて、思いがけない隋の敗戦・滅亡は聖徳太子にも大きなショックを与えた。そして、太子は政治の第一線を退き、思索と著作に心を傾け、仏教経典の注釈書『三経義疏』をはじめ、我が国初の歴史書『天皇記』「国記』の編纂など、精力的な著作活動を続けるようになった。その立場は次第に孤立を深め、絶望と虚無におそわれていく・・。聖徳太子研究の第一人者とも言われる哲学者梅原猛氏の大作・聖徳太子(4部作)」を読んで、私は感動した。
歴史学者に大きな影響を与えた津田左右吉などは太子は余りにも偉大すぎる。したがって、『日本書紀』をはじめとする太子の伝誦は全て偽であり、それは後世の創作であるとしている。これに対して、梅原氏は、日本書紀をはじめとする太子に関する伝誦は勿論多少の誇張はあれ、ほぼ真実であると考えなければならないとし、太子は、1万年をさかのぼる日本の歴史の中で比類なき人格として、毅然として光っている。そして、それは、一つの日本のエポックを作っている。太子以前と太子以後の日本は別の日本になった。倭の王から日本の天皇、そして、国名も君主名も変わったように、日本は氏族制度の国家から律令制度の国家に大きく変わったと説く。歴史で教わった偉大な聖徳太子・・しかし、聖徳太子亡き後、その子山背大兄王ら聖徳太子一家が何故惨殺されなければならなかったかのか?。聖徳太子に興味のある人には、是非一読をお奨めの書である。
聖徳太子は信仰の対象として、その事蹟には多くの潤色が含まれている。 教科書での呼称を「聖徳太子」から「厩戸王」に移すなど、これを歴史上の人物(厩戸王)として見直す動きは進んでいるそうだが、その困難の理由として、①文献史料の不足 ②物証の不足③信仰の壁 の3つを挙げることができるというが、中でも、大きな障壁は③らしい。聖徳太子は一宗派の信仰ではなく、仏教であるか神道であるかを問わず、日本史上もっとも偉大な人物という信仰が拡がっている。たとえ歴史の問題のみに切り離そうとしても、聖徳太子は日本の律令国家誕生の先駆者であるという考えが深く根付いているからだそうだ 。
聖徳太子建立七大寺として、 法隆寺・四天王寺・中宮寺・ 橘寺・広隆寺・法起寺・葛木寺(奈良県橿原市和田町)があるほか、聖徳太子とゆかりのある寺や寺院もいくつかあるが、その中で、我が地元である兵庫県にもかなり、聖徳太子とゆかりの深い寺が2寺ある。その一つが、兵庫県揖保郡太子町鵤にある斑鳩寺(いかるがでら)である。(正しい音読み、「はんきゅうじ」だそうだ)。この寺は「法隆寺の別院として播磨の国に建てられた寺」とされている。そして、太子が建立した奈良・法隆寺の所在地「斑鳩町」と同じ寺名であるばかりか、斑鳩寺の建立地も「太子町鵤(いかるが)」である。
少し長くなったので、ブログの性格上、紙面(字数)に制限があり、このページはここで終わる。
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続・「太子会」の日
(上記画像は、聖徳太子フリー百科事典Wikipediaより)