9人――2021年、東京大に合格したが入学手続きをとらなかった人数、つまり入学辞退者数である。なお、2020年は19人も辞退者がいた。表は2020年の国立大学の入学率ランキング(朝日新聞出版『大学ランキング2022』から)だ。上位は入学辞退者が少ない大学で、東京大は3位の99.4%。入学辞退者の割合は0.6%だった。
東京大は日本の大学の最高峰、と考える人にすれば、入学辞退は「あり得ない」話で、9人とか19人はとても多いと感じるはずだ。東京大を蹴ってどこへ行くのだ、と理解に苦しむこと、この上ない。
しかし、大学受験事情に詳しい予備校関係者ならば、「だいたいこんなものだろう。今年の9人は少ないんじゃないかな。たいてい2桁はいる」とクールに受け止めている。
入学辞退者9人の科類別内訳は、文科I、II、III類、理科III類はゼロ。理科I類3人、理科II類6人となっている。これまで、東京大の入学辞退者のほとんどは、他大学の医学部へ進んでいる。なかでも慶應義塾大学医学部は人気が高い。この傾向は半世紀近く、変わっていない。
ならば、はじめから東京大を受けなければいいのに、と思われるだろうが、ここには、受験生の微妙な心理が揺れ動いている。次のようにまとめられる。
●理III志望だったが、センター試験(大学入学共通テスト)の点数が悪かったため、理I、理IIに志望を変更。合格したものの医師の夢は捨てきれず、他大学医学部へ進んだ。
●やっぱり最高峰の「東大理III」に行きたいという気持ちが強く、入学せず、再挑戦する。
●医師になりたいと思う気持ちが高まり、後期日程で国立大学医学部を受験、あるいは浪人して再挑戦する。
●東京大よりも、自分の好きなことを学べる他大学に入りたいと思った。
さらに大学入試の歴史を振り返りながら、東京大の入学辞退のさまざまなケースを見てみよう。
(1)病気による進学断念。
1950年代、結核など重い病気を患って長期静養が必要とされたことで東京大をあきらめた。
(2)経済的理由で進学断念。
1950年代、家族を養うため、東京大をあきらめた。
(3)入学手続き前に病気、不慮の死など。
レアケースだが、1960年代まで見られた。
(4)親の反対で進学断念。
地方の天才または秀才女子高校生が合格。しかし、親は一人で東京で生活させることに大反対して、地元の国立大学に進んだ。これも1960年代までのレアケース。
(5)医学部へ進学。
現在の入学辞退でもっとも多い理由であり、このルーツは1970年代前後にさかのぼる。東京大入学辞退者の推移は1971年19人、72年22人、73年31人、74年35人、75年46人、76年49人。1969年の東大闘争で権威が落ちた、あるいは学生運動に巻き込まれたくないという見方もあった。なお、予備校の調査によれば、76年の辞退者が進学した医学部は、慶應義塾大19人、東京医科歯科大10人、信州大3人、群馬大3人など。これらのうち国立大学は、当時、東京大と入試日が異なっていた。
1979年の共通一次試験の実施、つまり、国公立大学入試の一本化によって、東京大入学辞退者は減る。
(6)医学部ではない他大学へ進学。
レアケースだが、文科III類合格者で早稲田大政治経済学部、慶應義塾大経済学部、上智大外国語学部、国際基督教大へ進んだという辞退者もいる。文Iをめざしていたが、共通一次試験(のちにセンター試験)の成績がふるわず、文IIIを受験して合格したものの、文学部系よりも実学を選んだわけだ。1980年代、バブル期前後に見られた。
また、東京大と東京音楽大に合格し、東京音楽大を選んだ受験生がいて話題になったことがある。どうしても音楽家の道を進みたかったらしい。
(7)東京大、京都大ダブル受験可能時代。
1987、88年はA日程・B日程という連続方式の入試制度のもと、東京大、京都大の入試日程が別々になり、両大学をダブル受験できた。その影響で東京大は87年290人、88年は381人の辞退者を出す。京都大第1志望の関西の受験生が記念受験で東京大を受けたという、いまとなっては信じがたいケースである。実際、入学辞退者には灘、東大寺学園、洛星、洛南出身者が多かった。
(8)合格発表の見誤り。
自分の受験番号を誤って覚えていたため、合格しているのに見落とした。合格発表が受験番号と氏名の掲示から、受験番号のみに変わった1990年代以降にいくつかの報道があったが、超レアケースである。
(9)実力を試したかった。
模試で好成績だったので東京大を受けて自分の実力を証明したかった。
(10)塾、予備校の興隆で、講師が受験。
力試しもあるが、東京大受験生に教えるため、実際に受けた。これもきわめてレアケースだ。
1974年、東京大入学辞退者は35人を数えた。メディアが追跡調査を行っている。一部、紹介しよう。
鹿児島の県立高校出身者で理Iに合格。しかし、鹿児島大医学部を選んだ受験生の母親はこんな談話を残している。
「東大に受かって身体検査に上京したとき、駅で1500円おどし取られたんですよ。映画鑑賞会か何かに入れというて、若い男がしつこく迫ってくるので、捨てるつもりで出したらしいのですが、そいで子どもは東京がイヤになったんですね。空気は悪いし、ごみごみしているので東京は好かん、といって帰ってきました」(「週刊朝日」1974年5月3日号)
恐喝と公害。このころ、東京など住むところではない、と思っていた人たちがいたようだ。
福島県内の県立高校出身者は、1浪で理IIに合格したが、福島県立医科大へ進む。当人がこう話す。
「県内で医者をやろうとするのなら結局は福島医大ということになって。昨年、はじめからここを受けていたら、そりゃあ入ったかもしれませんが、浪人して挫折感も味わいましたし、東京での1年間の予備校生活は無意味じゃなかったと、自分では満足しています」(同・前)
浪人、予備校生活に意味があったことを証明するために、東京大を受けたようだ。
次に紹介するのは、おそらく東京大史上最優秀の辞退者であろう。1993年、前期試験で理IIIに合格。入学手続きをとらず、後期試験を受けて京都大生となった。出身は高知県の私立高校で、こう記している。
「京大理学部が第一志望。ここの数学の研究には定評がありましたし、昔からの憧れでした。ただ、日本の理系の最高峰といわれている東大理3は受けておこうと思いました。申し訳ないんですが、記念受験というやつです」(『天才たちのメッセージ 東大理III1993』データハウス)
(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)