今回の分裂もまた小沢一郎勝利の予想 野田ファッショ首相も一巻の終わり 谷垣も末期 (日刊ゲンダイ) <阿修羅>
小沢は政治家として別の次元にいる。衆院議員の離党が40人となったことから、「小沢グループも分裂」「元代表展望描けず」などと騒ぐマスコミの目も節穴だ。
自民党分裂から民主党政権、そして今回の民主分裂まで、小沢は私利私欲、個利個略で動いたことはない。だから、土壇場になると強いのだ。こう動いた方がトクだとか、なんとか生き残りたいとか、ケチな理由で右往左往している連中に勝ち目はない。実際、これまで敵対した反小沢派は常に負けている。
1993年6月に新生党を結成。たもとを分かった自民党は、8党派連立の細川政権によって下野した。翌12月に立ち上げた新進党から離反した細川元首相は、ほどなくして政界を引退している。98年1月に誕生した自由党は、自民党との連立→離脱の過程で分裂。政権に残った連中は00年に保守党を立ち上げたが、同年の総選挙で惨敗した。民主党に合流後も小沢の強さは変わらない。09年衆院選で自民党は惨敗。野中元幹事長や小泉元首相はすでに引退し、森元首相も若手に突き上げられて政治力を失った。残っているのは、相手にならない青二才ばかりである。
そういえば、今日の日刊スポーツ政界地獄耳に、『小沢は権力の中枢にいるときには必ず失敗している』と書かれているな。
・1991年、自民党幹事長のとき、東京都知事選で高齢の鈴木俊一知事を引退に追い込もうとしたが、自民党の東京都連がそれに反発し、自民党内で分裂選挙となった。磯村尚徳を立てて敗れた小沢は引責辞任。
→ 鈴木は1993年に世界都市博覧会開催を決定。しかし開催前の1995年に退任。ところが、後任の青島幸男がそれを中止すると公約し、それを実現させてしまった。鈴木の面目は丸つぶれ。
・細川内閣時代には、公明党の市川雄一と「タッグ」を組んだ、「一一ライン」で内閣に大きな影響力を与えたものの、武村正義内閣官房長官と鋭く対立した後、細川、さらには後継の羽田内閣はいずれも短命政権。おまけに、武村のいたさきがけ、そして社会党が、自民党と共同政権構想に合意し、1994年6月の首班指名選挙で社会党委員長の村山富市を担ぎ、小沢らが推す海部俊樹元首相を破った。小沢は初めて野党議員に転落。
→ 消費税率引き上げ(3% → 5%)は村山富市内閣時代に内定させて、後継の橋本龍太郎内閣が実行した。そして、村山は社会党を大きく退潮させてしまったため、土井たか子が後継党首になると、「社民党」に改名せざるを得なくなり、少数議席野党に転落。また、小沢を権力中枢の座から引きずり降ろした「最大の立役者」・武村は、鳩山由紀夫と菅直人の2人に離反された(2人らは、第一次民主党を結成した)。そして、(第一次)民主党への加入を打診したものの断られ、その後、入院や落選、さらに息子の不祥事なども重なり、政界での活躍の場を失った。
・新進党党首時代の1996年の衆議院議員選挙で、「一龍戦争」と称され、長年の宿敵関係にあった橋本龍太郎率いる自民党に敗れ、加えてその後、元首相の細川護煕、羽田孜らの離党などもあって新進党内における内部崩壊が進んだため、小沢は結党わずか3年で新進党を解党した。
→ 橋本は消費税増税の実行、緊縮財政政策の失敗がもとで、1998年の参議院選挙で自民党を大敗に導いたとして退陣。その後、日歯連事件が発覚し、田中派から続く最大派閥の座を、自らの代で転落させてしまった。なお、新進党内における内部崩壊は野中広務も深くかかわっているが、野中については下記参照。
・小渕恵三内閣時代、「自自連立」を実現させて与党に復帰したものの、後に公明党が連立に加わり、「自自公連立」が実現したことで、小沢の存在が邪魔になった野中広務が排除に乗り出し、自民党が連立政権合意を一向に実現させる気配が見られないことに怒った小沢率いる自由党は、2000年4月1日、連立政権からの離脱を表明した。その直後、小渕恵三首相は脳梗塞に倒れた。
→ 小沢を「悪魔」と公言した野中はその後、小泉純一郎首相時代に党内「抵抗勢力」の一番の敵役に仕立て上げられてしまったばかりか、懐刀の青木幹雄らに離反されてしまったため、党内における行き場を失い、2003年に政界引退を余儀なくされた。
・自自公連立内閣を離脱した自由党内で分裂が起こり、扇千景を党首とする保守党は自公との連立に踏みとどまった。
→ 保守党は2000年の総選挙で改選前議席を19も減らす7議席と惨敗。翌2001年の参議院選挙では党首の扇しか当選できなかったため、2002年に解党を余儀なくされ、かつては小沢の懐刀と言われた熊谷弘を党首を迎え入れた保守新党を新たに立ち上げたものの、2003年の衆議院選挙で4議席にとどまったために、自民党に吸収されてしまった。
・2010年9月の民主党代表選挙で、現職総理・代表の菅直人との一騎打ちを挑んだが、党員・サポーター投票で大敗したため、菅の軍門に下った。
→ 菅はその後発生した東日本大震災と、それに派生して起こった東京電力福島第一原発事故の事後処理に手間取ったとの世論評価に加え、2009年のマニフェストでは取り上げられなかったTPP参加や消費税増税を掲げたことから、小沢が最初に音頭を取る形で「菅おろし」の声を上げ、内閣不信任投票当日に行われた党代議士会で、「震災対応にメドをつけたら若い人に責任を引き継いでもらいたい」と言明し、この時点で実質的に退陣を表明。そして2011年8月26日に退陣した。
ま、前にもこれに類似した話をしたが、小沢に「勝った」人物のその後は「悲惨」というしかない。そしてそれらの崩壊後、小沢は不死鳥のごとく蘇り、日本政界を動かしていくのである。
逆に言うと、小沢はもういい、さっさと引退してくれ!と願っている人物からすれば、小沢を何でもいいから完膚なきまでに叩きのめす必要があり、上記の通り、それを実行している例も少なくないのだが、一方でその後、政治理念を失って後に政治家生命を絶たれたり、はたまた小沢を「亡き者にしよう」と画策した連中が逆にとんでもない目に遭うケース(例:陸山会事件における検察捏造調書が暴かれたりなど)も少なくない。
さて、小沢は2日、民主党からの離党を表明。これを受け民主党は、小沢を含めた衆議院議員の離党者を除籍にした。つまりは、「小沢討ち」に先手を打った形となったが、果たして、これで小沢の命運も尽きるのだろうか?いや、「歴史は繰り返す」のか?