という話が出てきておりますので、ちょっと調べてみました。
「弥彦競輪物語~弥彦競輪50年の足跡」というページにあらましが掲載されています。
http://www.yahikokeirin.com/index.php/column-all/699
『ファンにとってゴールもしていないのに車券が紙クズ同然となる落車などの事故を減らそうと、競技規則の改正に取り組んだのが昭和 63年。その後も平成3年に改善されたが、なかなか落車の件数が減る状態になかった。』
ということから、平成7年、つまり1995年4月より、失格3点、重大走行注意1点、走行注意0.2点を競走得点から減点する制度が設けられた、というわけです。
しかし、それでは競輪本来の魅力が失われる、ということになり、2000年8月より、失格3点のみが減点される制度に改められました。ところが、2003年12月31日を初日とする開催より、またもや競技規則が変更になりました。
そのあらましについてはこちら。
http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2003khn/11/khn20031104.html
その中で、こんなくだりが。
平成14年度第2回競輪政策決定会議において、ファンにとってわかりやすい競技規則の構築を図ることが決定されたことに伴い、平成15年4月実施の審判用VTRの公開と併せ、判定基準等の改正を行ってまいりましたが、さらに、わかりやすい競技規則を構築するために、ファン及び有識者等からの意見を踏まえて検討を重ねてまいりました。
一方、落車件数の増加傾向に歯止めがかからない現状を鑑み、競走上の安全性を維持するための方策に関しても検討した結果、平成15年10月21日に開催された中央判定調整会議(座長 深澤 亘 日本自転車振興会副会長)において、下記のとおり競技規則等を改正することが決定されました。
上記の理由により改正に踏み切ることになったという次第。特に、内圏線踏み切り、という件についてはこう述べられています。
ファン及び有識者から最終周回ゴール前30m線到達後に着狙いのために自ら内圏線を踏み切り、更にその状態で外帯線外側の正走路を走行する選手を追い抜く行為に対し、現行の競技規則では違反行為として認定していないことに厳しい指摘を受けていることから、当該行為を抑止するため・・・
ということは、2000年8月に一部規則緩和処置が取られたものの、それにより、いわゆる、「内線突破」まがいの行為が平然と行われていたことや、落車件数の増加傾向に歯止めがかからなくなったということにかんがみ、再度規制強化に踏み切らねばならなくなった、ということになったのでしょうねぇ。
ということは、1995年4月以前の競技規則並びに、2000年8月からの競技規則緩和処置だと、違法走行まがいの競走が横行し、結果、落車、失格が急増する、という結論に達した、というわけですなぁ。
1983年のKPK制度導入後、急激に落車、失格の数が急増したという記事が、月刊競輪の特集でも取り上げられたことがありました。そうした流れを打開するべく、1988年、1991年に改正を行ったものの、あまり効果は現れなかった。ところが、1995年4月からの改正により、くだんの弥彦競輪物語ではこう記されています。
平成7年4月から実施され、その年度は6800件あった落車が2800件までに 激減。ファンにとっては安心して車券を購入できるというメリットと事故防止という点では、それなりに成果を収めた。
これはかなりの成果だといえます。しかし、2000年8月の再改正以後は再び増加基調に転じてしまったため、再度改正せざるを得なくなった、というわけですなぁ。
ということは、要は、選手が
「ちゃんと走ってないから」
ということが一番の問題じゃないか。
ひいては、売り上げの下降基調を結果的に招いた、ということに結論付けられるんじゃないの?
それと、競輪の入場者数は1974年度をピークに下降、売り上げも、1981年度に実質初の前年比ダウンとなり、それが1984年度まで続きました。ということは、旧ルール時代より、既に売り上げは下降局面に入っていたのです。
ところが、バブル景気の恩恵を受けて、競輪もその頃は、まさしく黄金時代さながらの売り上げ伸び率となっていました。蛇足ながら、「最初の」競技規則改正となった1988年、2度目の1991年については、対前年比を見ると増加しています。しかし、バブル崩壊後に売り上げが急落。しかも、1991年度をピークに、「一応」2009年度まで、一度として対前年比売り上げ増となった年度はありません。
ということですな。