公営競技はどこへ行く

元気溢れる公営競技にしていきたい、その一心で思ったことを書き綴っていきます。

ベルモントS馬が出走へ

2009-11-10 18:52:18 | 競馬

今年のジャパンカップダートに、サマーバードが招待を受諾。

http://www.sponichi.co.jp/gamble/flash/KFullFlash20091110073.html

サマーバードは、今年のベルモントステークスの覇者で、ケンタッキーダービー馬のマインザットバードを下した。その後、トラヴァースステークス、ジョッキークラブゴールドカップも制したバリバリの一流馬。

先日行われたBCクラシックでは3番人気に推されたものの、直線伸びきれず4着に終わった。JCDはその雪辱戦となる。

ま、過去に来日した「大物外国馬」は、評判倒れになることが多かったが、果たして今回の米クラシック馬は如何に・・・

 


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KPK制度の功罪

2009-11-10 09:44:00 | 競輪

バンク先生、競輪プログラム改革構想(KPK)を批判。

わがまゝ日記のコメントより。

KPK導入における脚力接近の高配当を狙ったシステムが、競輪の衰退(大量落車を含め)を加速させた原因の一つではないかと思います。後、ライン戦の戦いも本来の、強い先行に強いマークの図式を崩壊させ、支部員数と地元競輪場がある選手を、有利にする番組、並びに問題ありですね。競艇なら、地元のない選手でもG1とれますしね・・・。地元地元地区地区と、自分の場の売上げさえ良ければの各競輪場(地元選手が勝てば売れる)の考えが、現在、全国に販路を拡大した結果、他場のファンから、地元有利の不信と疑問の番組編成だと感じられれば、目の肥えたファンは、去るんじゃないかと思ってしまいます。

ま、競艇も地元偏重の番組組んでいるし、地元オールスター戦なんてものも年に3回行われている。さらにいえば今、地元スター候補といって、斡旋面等を優遇する処置が取られている。地方競馬を除けば、地元優先では必ずしもなくなった、というのは、オートレースぐらいなものかな。

対して競輪だが、KPK時代以前は、正月のヒラ開催にも、地元のトップスター選手が斡旋されるケースがあった。しかし、KPK時代に入ってからは、そんな事例はめったになくなった。

むしろ、現行の番組制度になってから「復活」しているような気がする。つまり、S級シリーズが増えたため、今でいう、SS級選手を斡旋しないことには回っていかない、という事情があるものと考えられる。対して、ヒラ開催はKPK時代も地元優先重視主義。

KPK制度は1983年4月からスタート。しかしながら当初は、先生のコメントにある通り、落車・失格が頻発し、おまけにスジ違いで入る確率が高くなったものだから、急激に車券をとりにくくなった、という声が上がった。したがって、鳴り物入りで導入したはずなのに、ちっとも売り上げは上がらず、後述する、借り上げ施行者は撤退をほのめかす事態に。

だが、KPK以前は要は、配当が滅茶苦茶「安かった」ということがいえるわけで、それが原因で競輪離れが進んでいたことも事実である。

例えば、記念では100名程度しかいない現S級1班+S級S班に相当するA級1班と、今でいうなら、A級2班の下位レベル程度の実力でしかないA級5班が対決するケースがしばし準決勝あたりではあったが、レースをやる前から「決まっている」ケースばかりで、それこそ150円とか、そんなレベルの配当ばかりが目立った。

対して競艇は6艇しか走らないが、時折、連単でも1000円台の配当が出た。こうなると、競艇のほうが客にとって妙味があるのは言うまでもなし。ついには1975年度に、競輪は売り上げで競艇に抜かれた。当時、競艇の売り上げアップ比率は毎年二桁増が目だったのに対し、競輪は一桁増が精一杯だったため、ついに逆転となったというわけである。

さらに、中央競馬を除く公営競技は1982年度に一斉に前年度比売り上げダウンの憂き目に遭った。そんな状況の中、まさに起死回生策として登場したのがKPKであった。

KPK誕生3年目の1985年度に、KEIRINグランプリが登場した。恐らく、KPK以前時代の競輪であれば、スター選手を一同に集結させるといった、こうした画期的なレースは実現しなかっただろう。ま、1974年にオールスター競輪において、ドリームレースが誕生していたものの、ドリーム戦はあくまでも「特選」。つまり、客側も「やるか、やらないか」程度にしかみていなかったはず。ということは、「決勝戦」で一同に集結されてしまうと、難しすぎて手を出せない、と、客が一様に思うはずだからだ。

したがって、グランプリ開始当初は開催地がなかなか決まらなかったり、場外発売さえもほとんどの競輪場で敬遠されたほど。おまけに、グランプリ9選手が立川競輪場の正門前で「お出迎え」したくらいだったからね。

しかしながら、当日の立川は4万人の客で埋まった。競輪黄金時代を復活させる事態となったのある。しかも、競艇もそうだったとはいえ、1985年度、競輪の売り上げは3年ぶりに対前年比でアップを果たした。その後も1991年度までそうした状況が続いた。

KPK制度の問題は、実はこの後からにあったと考えられる。

つまり、バブルが崩壊して、それ以前は、ほっといても売れていたヒラ開催からまず売れなくなった。挙句、バブル崩壊以前より赤字に悩まされていた借り上げ施行者の撤退が相次いだ。

とりわけ、経営難に悩まされていた西宮・甲子園競輪は、S級シリーズが年間3節というのは少なすぎるとして、KPK晩年には5節に増やしてもらった。また、他の競輪場の中にも、「西甲」に倣うところが出始めた。つまり、赤字が出るに決まっているヒラ開催は受けたくない、という姿勢がありありと見えたからである。

ところが、KPK時代のS級選手は全競輪選手数のせいぜい10分の1。にもかかわらず、斡旋本数が急増したため、斡旋を受けれないとする選手が急増。挙句には、「中ゼロ日」で競走へと挑む選手も少なからず見受けられるようになった。

実は1999年初頭、グレード制導入を柱とする競輪改革構想が打ち出され、S級戦の大幅増加により、ヒラ開催(現在のF2に相当)の比率を下げることまで打ち出されたのだが、当時の選手会はドン・片折がデーンと居座っていた頃。したがって、グレード制こそ2001年度に実施されることになったが、現番組制度は2002年度にまでずれこんだ。なぜ現番組制度が実現したかというと、2000年に片折行氏が他界したことに大きく起因する。

ところで、KPK制度は、実は競艇やオートレースにもそれなりの影響を与えている。競艇は以前はA・B・Cの3ランク制であったが、記念(G1)以上の開催では、なるべくスター級選手を集結したいという意向により、A1・A2・B1・B2の4層式に改めた上で、G1以上の開催では原則的に、A1級しか参加できなくなった。また、オートレースも後にS級が設けられるようになった。

思うに、KPK制度はそれだけ画期的な制度であったわけだが、反面、先生がおっしゃるとおり(というか、意味合いは違うと思うが)、競輪衰退を結果的には加速化させることになった。それはつまり、「ヒラで稼いでビッグは小遣い」といった、従来の競輪の姿勢が通用しなくなったことで、2001年度をもって終焉を迎えるのであった。

コメント (25)
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