公営競技はどこへ行く

元気溢れる公営競技にしていきたい、その一心で思ったことを書き綴っていきます。

石崎隆之騎手が通算6000勝達成

2009-05-01 17:19:46 | 競馬

石崎隆之騎手が地方競馬通算6000勝を達成。

http://www.netkeiba.com/news/?pid=news_view&no=36071&category=B

6000勝達成のレースはこちら。

http://www.nankankeiba.com/result/2009050118010502.do

アーティクルリバーに騎乗。4角で先頭をうかがい、ゴール直前抜け出した。その後、4、10レースでも勝利しており、1日現在の通算勝利数は6002。

現在、地方競馬通算勝利数は第2位。1位の佐々木竹見は7151。あと1149か。

石崎だったら抜けるかな。


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「世界選みたいな遊びやってられるか!」

2009-05-01 03:19:43 | 競輪

1975年、競輪選手として初めて世界選手権でメダルを獲得した阿部良二が、翌1976年の全プロ・スクラッチ(今はスクラッチとは言わない。スプリントだが)で優勝したにもかかわらず、

「もう世界選みたいな遊びは結構。こりごりだ!」

と激怒して、世界選の代表の座を自ら降りたばかりか、この後、二度と世界選手権に出場すらしなかったという話を、昔発刊されていた、「自転車競技マガジン」で読んだことがある。

ところがその真相については明らかにされていなかった。

だが、阿部が現役を引退して数年経った後、今は発行されなくなった、全輪協が季刊誌として出していた、「PR+S」(発行時期は忘れたが)に、真相とも取れるようなインタビュー記事が掲載されていた。

世界選で銅メダルを獲得した後、当時、「グランプリシリーズ」という国際大会のシリーズ戦があり、阿部も出場してみないか、というオファーが届いたそうなのである。また、阿部も勝気な性分だったせいか、是非ともそれに出て自分の力を試したい、という話になり、ほぼ出場を固めていた。

ところが、この話に対して競輪関係団体から横槍が入り、

「その間競輪は一体どうするんだ!」

と怒られてしまい、結局、グランプリシリーズの出場は叶わなかった、というわけ。

そのくせ、

「全プロに出ないと世界選手権の出場権を与えないぞ!」

と言われたものだから、渋々全プロに出て、しかも優勝までしたんだけど、実はその優勝とは、

「自転車競技という遊びはこれをもって金輪際やめてやる!」

という意味でもあったというわけ。

ま、上記の一連の話は、今とは違って情報が発達していない時代という手前、阿部にグランプリシリーズを辞退してもらわねばならない事情が確かにあったのかもしれない。つまり、競輪側の受け入れ体勢が整っていなかった、ということ。

しかし一方で、グランプリシリーズ(有名なのはグランプリ・ド・パリが挙げられるが)の開催時期は、確か春から、世界選が終了する夏までだったと思う。ということは、当時、特別競輪は4つしかなかったから、6月の高松宮杯だけ諦めてもらえば、残り3つの特別競輪については出場が可能だった。

しかし当時の競輪関係者は、

「そんな『遊び』にうつつを抜かしてもらっては困る!もし出るというんだったら、競輪選手をやめてもらわねばならないね!」

というニュアンスの言い方をしたんだろうな。だから阿部が怒って、「もうやめる!」と言い出したんだろう。

中野浩一もまた、世界選で連覇を重ねながらも、

「中野が勝ち続けているのは、東欧勢が出ていないから」

という言われ方をされたものだから、プロアマオープン大会である、上述のグランプリシリーズに参加したがっていた、という話を聞いたことがある。

実際のところ、パリとコペンハーゲンの大会に出たことがあり、パリについては、ヘスリッヒなどと対戦経験があるし、コペンハーゲンでは東ドイツの選手を破って優勝しているんだが、結局は単発出場。

また、それに関連して、モスクワ五輪ボイコットにより、「悲劇のヒーロー」となってしまった長義和に対し、

「年齢が過ぎているから受け入れられない」

といって競輪界は長の競輪入りを拒否し、結果、長は現役を引退せざるを得ない羽目になってしまった。

結局、こうした体質が積もりに積もった結果、競輪界は後にまさしく、「大魚を逃す」羽目になる。

長野オリンピック金メダリストの清水宏保が、長野五輪終了後、インセンティブの問題で、当時所属していた三協精機と揉め、

「もうスケートは結構だ!」

と激怒し、三協精機を退社の上、競輪に転向する意思を固めていた。ところが・・・

当時、競輪学校の応募資格は、『満24歳未満』となっていたことから、当時24歳だった清水には、受験資格すら与えられなかった。

ところが、後にこの事情を知ることになった競輪界は急遽、清水のような選手を取り逃がしてはならん!ということになり、国際大会において特筆すべき戦績を収めた選手については、年齢制限を緩和する処置に出た。これを使って競輪界に転向したのが、植松仁であり、また武田豊樹だったというわけ。

しかしながら、競輪界が待望していた清水はとうとう、競輪には来てくれなかった。そのため、競輪学校の受験資格を、93期以降より、なんと年齢制限そのものを外すことになった。

もしこうした処置が、長や清水の頃にもあったならば、ひょっとすると競輪は変わっていたかもしれない。というか、話題性という面において、長や清水という存在は、当時の競輪にはなくてはならない存在だったはず。

一方で最初に戻るが、阿部良二の事件があって以降、紆余曲折を経ながら、競輪も変わるべきところは変えてきた。というか、変えざるを得なかった、ともいえよう。それに関連した話が、下述の話、といえそうかな。

当時の日本代表監督、ゲーリー・ウェストが、2004年の世界選手権の予選後、永井清史を急遽チームスプリントのメンバーから外したことで、日本チーム全体が空中分解状態となり、大会終了後、結局五輪出場を逃した山田裕仁らが、

「ああ、もう終わった!楽しかったな!」

と、半ばやけくそになっていた光景が見られた。

しかしウェストはその後も手を緩めようとはせず、今度は、

「日本はアテネでメダルを獲りたいんだろ!だったら競輪を休ませてくれ!」

といって、長塚、伏見、井上の3人を、寛仁親王牌には参加させず、その間、高地トレーニングさせたけど、結果、日本が「まさかの」銀メダル獲得となったことについては、今や誰もが知るところだろう。

また、北京五輪で銅メダルを獲得した永井は、約半年もの間、競輪には一切出ていなかった。

今の時代、阿部の事件があった頃とは180度違っている。つまり、国際大会に優先して参加することが可能になったということ。また、年齢制限が撤廃された上に、競輪学校には、自転車競技経験者でなくても入学できる道があるから、他競技で無念な思いをした選手たちの受け皿にもなっている。

つまり、変わろうと思えば変われるじゃないか、ということ。

競輪を知らない人からすれば、オリンピックで行なわれている「ケイリン」こそが競輪だと思っているんじゃないか。現に、オリンピック間際になると、やたら、

「日本が生んだ世界のスポーツ、KEIRIN」

なんていうキャッチコピーを持ち出すからね。

ま、すぐには「競輪」を「ケイリン(UCI準拠ルール)」には変えられないよ(って、この話だって、もう何年来も言い続けている)。しかし、競輪に対して、潜在的に興味を持っている人は、実は少なくないのではないか、ということ。

そんな競輪を、あと10年でなくしていいものなんだろうか?

コメント (2)
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