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救いと贖い  パート2

2015-07-24 19:51:39 | 福音と教会

前回   2015-07-22 03:55:08  | 福音と教会

「19 しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。
」(教義と聖約19)

たまWEBは、この教義と聖約19:19の、“終えた”は、使命のひとつである贖い主として、備えを単に終えた、完了させたといったばかりではなく、(地獄の苦痛を身と霊とに経験しその使命を果たし得て)贖い主として完全となった、霊的な死をもたらす地獄の枷・かせから人類を解き放てるに至ったといった勝利宣言ふうにも解されると見るわけです。うぅぅんんと、インスティチュート・テキスト『教義と聖約』のその箇所・19章のをのぞいてみたんだが、そういった解説は、皆無でんな。

たまWEB風、オリジナルか???(  ~~  肉体的死からの勝利宣言は、十字架上の死を経ての復活が相当しますかぁぁ)   検索してみれば、あらら、けっこう多いじゃん・・・・あぁらぁぁ、そんでもってヨハネ19:30で、ですかぁぁ。まぁ、一般キリスト教のだから、それはそれで、むべなるかなですかぁぁ・・・・教義と聖約19章ので、たまWEBのオリジナル風だんべがや??(先にネット上、書き込んだもんがぁぁ)・・・・

         贖い主  ”勝利宣言”
                http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E8%B4%96%E3%81%84%E4%B8%BB%20%20%E2%80%9D%E5%8B%9D%E5%88%A9%E5%AE%A3%E8%A8%80%E2%80%9D

         

で、19節に対応する原参照欄には(『教義と聖約』 p40)、ヨハネ伝から二つの聖句を挙げてますね、これはですねぇぇ・・・・・そのひとつに「19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。」(ヨハネ)が、ありますね。・・・・・これはですね、贖いの業は、十字架上で最終的に終わったということを意味しているという把握、理解、解釈の上に立って、参照欄に入れたのかもですが、たまWEB的には、イエス・キリストのゲッセマネの園で贖い主として準備は、そこで完結した、万全、用意万端、整った、贖い主の使命はそこで果たされたでいいんだと。その観点に立たないなら、キリストを贖い主として完成せしめたその大いなる犠牲、その結果の贖いの効力といったことに焦点が当たらなくなってぼやけさせ救いをおろそかにする危険が生じてしまうんではと。

‘備えを終えた’という語感では、何か将来に向けてという意味合いがあるわけですが、それは何か??ですが、十字架上の死とかではないんだと。ここでは贖いの効力、贖いの個人に及ぼす救いの力を未来永劫、人の続く限り、発揮できるように準備は整った、贖い主として完全となった、完成されたといったことが、その意味になろうかと。罪の結果としての罰であるところの、すべての毛穴から血の汗を流すほどの、超々激烈な苦痛を人が味わわなくても済むように、身代わりとなってキリストは、その苦痛を自身の身と霊にに引き受けられた結果、贖いの効力をば、キリストを信じ悔い改める者には誰にでも生じさせ、発揮せしめることを可能にしましたよ、準備万端ですよぉという贖い主としての使命を完全に果たし得た、父なる神の御子、神であるイエス・キリストの宣言・地獄に対する勝利解放宣言ですよ~ということでしょうね。(事実上の勝利は、人が贖いの効力を得て、永遠の命を受け継ぐ時点でということになりましょうか)そういった意味合いが込められているんだと。

将来、信仰をもってキリストのもとにやってくるどんな人にでも、悔い改めイエス・キリストに従うことを条件に、罪からの赦しへの力が実際に働くように、キリストは自らを大いなる犠牲として備えを終え万全としたんだと。信じ悔い改める人には、その効力は現実のものとなって、赦されることを出発点とし、永遠の命へと続く道を歩ましめるようにされたんだと。この効力が人に及ぶことを贖いの業の定義に当然含まれ、贖い主キリストを信じ悔い改め従い行く人が続く限り、その業には終わりがないみたいになろうかと。

人により千差万別の罪の状態があるわけですが、あらゆる、一人々の状況に応じて罪から清められ赦されて贖いの効力を得させるところの力を獲得すべく、キリストは、罪のない、神の御子であったにもかかわらず、万人の霊的な救いのために身代わりとなって、ゲッセマネの園で、罰としての、人であれば必ず死なねばならぬほどの身と霊を苦しめる地獄の経験をしたことで、その救う能力、権利、権能を、主なるキリストは得られたんだと。それが贖い主の所以であり、そのようにして未来永劫、贖いの業が発揮、続行されるよう、神であるキリストは、贖い主として完成されましたと。(救い主としての使命の完成は、十字架上の死でもって) かくして、今日、悔い改める者やふさわしい者には、罪からの赦しやイエスがキリストであると知り、キリストは復活して生きておられるといった証をする力を与えられる等、第一の慰め主である聖霊の種々の影響力が及んだりし、キリストの教えを受け入れ従い、永遠の命へと続く道を歩ましめられてるんだということになろうかと。人の悔い改めキリストに従うところの信仰に応じ、贖いの業は今日も効力を発揮し現在進行形であり、かつキリストに従う人と共に、未来にわたって続いていくんだと。

               贖い  効力
               http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E8%B4%96%E3%81%84%20%20%E5%8A%B9%E5%8A%9B

               ”贖い主”  悔い改め
               http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E2%80%9D%E8%B4%96%E3%81%84%E4%B8%BB%E2%80%9D%20%20%E6%82%94%E3%81%84%E6%94%B9%E3%82%81

こうして見ますれば、まずは贖いと救いの意義を分けて説きおこし、そのうえで悔い改めという必須条件付きでの贖いの業の普遍性を解き、さらにその条件としての悔い改めの重要性に、人には弱点がそもそも与えられていて、キリストに信仰を持つ者には、その弱点を認めることに始まって、へりくだり悔い改めへとさとされるといった言及がなされ、そして、贖いの業の効力が及ぶことには終わりがないといったふうなのが、回復された福音での主要な観点になろうかと・・・・

関係する聖句としては、

「40 また、神の御子は御自分の民を贖うために、将来この世に来られ、御自分の御名を信じる人々の背きを負われる。これらの人々は永遠の命を得る人々であり、これ以外の人々に救いは与えられない。
 41 したがって、悪人はあたかも贖いがなかったかのような有様であり、ただ死の縄目からの解放だけがある。見よ、すべての人が死者の中からよみがえって神の御前に立ち、自分の行いに応じて裁かれる日が来るからである。
 42 さて、肉体の死と呼ばれる死がある。そして、キリストの死は将来この肉体の死の縄目を解き、すべての人がこの肉体の死からよみがえる。
 43 霊と体は再び結合して完全な形になり、手足も関節も、ちょうど今のわたしたちのような、その本来の造りに回復される。そして、わたしたちは今持っている知識を保ったまま、神の御前に連れ出されて立ち、自分のすべての罪をはっきりと思い出す。
 44 さて、この復活は、老いた人にも若い人にも、束縛された人にも自由な人にも、男にも女にも、悪人にも義人にも、すべての人に与えられる。そして、髪の毛一筋さえも失われることはなく、すべてのものが今あるような、その完全な造りに、すなわち体に回復される。それから、自分の行いが善いか、それとも悪いか、行いに応じて裁かれるために、一つの永遠の神である御子なるキリストと御父なる神と聖なる御霊との法廷に連れ出され、罪の有無を問われる。
 45 さて見よ、わたしは死すべき体の死について、また死すべき体の復活についてあなたに語ってきた。わたしはあなたに言う。この死すべき体は不死不滅の体によみがえる。死から、すなわち第1の死から命に移り、すべての人がもう死ぬことはあり得ない。彼らの霊は体と結合して、決して分離しない。このように相合したものは、霊的な、不死不滅のものとなり、彼らはもはや朽ちることがない。」

(アルマ11)

「11 そして神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉が成就するためである。
 12 また神の御子は、御自分の民を束縛している死の縄目を解くために、御自身に死を受けられる。また神の御子は、肉において御自分の心が憐れみで満たされるように、また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知ることができるように、彼らの弱さを御自分に受けられる。
 13 さて、御霊はすべてのことを御存じである。にもかかわらず、神の御子は御自分の民の罪を負い、御自分の解放の力によって彼らの背きを取り消すために、肉において苦しみを受けられる。さて見よ、これがわたしの内にある証である。
 14 さて、わたしはあなたがたに言う。あなたがたは悔い改め、再び生まれなければならない。再び生まれなければ天の王国を受け継ぐことができない、と御霊が言われるからである。したがって、自分の罪から洗い清められ、神の小羊を信じる信仰を持てるように、やって来て、悔い改めのためのバプテスマを受けなさい。神の小羊は世の罪を取り除く御方であり、人々を救い、すべての不義から清める力を持つ御方である。
 15 まことに、あなたがたに言う。来なさい。恐れてはならない。たやすくまとわりつき、あなたがたを束縛して滅亡に至らせるすべての罪を捨てなさい。まことに、来て、罪を進んで悔い改める気持ちのあること、また、神の戒めを守るという神との聖約に進んで入ることを、神に示しなさい。そして、今日バプテスマの水に入ることによって、神にそのことを証明しなさい。
 16 だれであってもこのように行い、その後、神の戒めを守る人は、わたしがその人に言うことを覚えているであろう。まことに、わたしの内で証する聖なる御霊の証によって、わたしがその人に永遠の命を得るであろうと語ったことを、その人は覚えているであろう。

(アルマ7)

「27 もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。

(エテル12)

「15 それゆえ、わたしは、悔い改めるようにあなたに命じる。わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。いかに激しいか、あなたは知らない。まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
 16 見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
 17 しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
 18 その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
 19 しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。
 20 それゆえ、わたしは再びあなたに命じる。悔い改めなさい。そうしなければ、わたしは全能の力によってあなたをへりくだらせよう。また、あなたの罪を告白しなさい。そうしなければ、あなたはわたしが語ったこれらの罰を受けて苦しむであろう。わたしが御霊を取り去ったときに、あなたはその最も小さなもの、まことにその最も軽度なものを味わったことがある。

(教義と聖約19)


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