「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「住蓮山安楽寺」(じゅうれんざんあんらくじ)

2006年02月17日 00時40分34秒 | 古都逍遥「京都篇」
安楽寺は鎌倉時代初め、浄土宗を開いた法然の弟子である、住蓮房・安楽房の2人の僧が念仏道場として「鹿ヶ谷草庵」を結んだのが、その始まりと伝えられている。通称は松虫鈴虫寺と呼ばれ、延宝九年(1681)に建立された。
 後鳥羽上皇の寵愛を受けた、松虫姫・鈴虫姫は自害したという「建永の法難」の悲劇の舞台となった草庵である。その後久しく荒廃しますが、二僧の供養の為に創建された。境内には住蓮・安楽の供養塔と松虫姫・鈴虫姫の墓が残り、悲劇を現在に伝えている。
 「建永の法難」によって流罪となった法然上人、その後、許されて帰京、住蓮房・安楽房の菩提を弔うため、かつての鹿ヶ谷草庵の地に創建したのが安楽寺である。

 では、松虫姫・鈴虫姫にまつわる当寺伝説を紹介しよう。
 
 当時の仏教は、貴族仏教とも言われたように権力者や貴族たちだけのものであった。ところが法然上人は、末法の時代にあって、すべての人は平等であり、すべての人は「南無阿弥陀仏」に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象から漏れていた女性たちに広く受け入れられ、念仏仏教が大変な勢いで盛んになった。法然上人の説く専修(せんじゅ)念仏が広まるにつれ、古くからある南都北嶺(なんとほくれい)の仏教教団は、新興の法然上人の教えを、国家の秩序を破り道徳を乱すものと決めつけ、教団を黙認するわけにいかず、元久元年(1204)10月、北嶺の僧侶が比叡山の大講堂に集まり、天台座主真性(しんしょう)に念仏を申してはならないとする「専修念仏停止」を訴えた。これに対し、法然上人は「七箇条制誡(せいかい)」を門徒たちに示し、念仏の自粛戒慎を守る190名もの門徒の連署を座主に提出した。これが「元久の法難」である。

 翌年9月になると、今度は南都興福寺の僧侶が北嶺の処置は手ぬるいとして「興福寺奏状(そうじょう)」を捧げ、専修念仏の全面停止を時の権力者である後鳥羽上皇に訴え出た。そのような事態の中でも、住蓮房・安楽房は念仏会を開き、両上人を修する浄土礼讃声明に魅了され、出家して仏門に入る者さえあった。その中に後鳥羽上皇の女官、松虫姫(まつむしひめ)・鈴虫姫(すずむしひめ)がいた。
 両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊かであったことから、ことさら上皇の寵愛を受けたがために、他の官女の嫉妬も相当なものであった。
 おりもおり、建永元年(1206)7月、上皇が紀州熊野へ行幸の際に、1日暇をもらった両姫は、清水寺に参拝し、その帰りすがら「鹿ケ谷草庵」において法然上人の説法を聞き、真の人間解放の道は、阿弥陀仏の絶対他力に求めるほかないと自覚した。御所に戻ってからも、法然上人の説法が忘れられず、両姫は密かに申し合わせて夜更けに御所を忍び出て、「鹿ケ谷草庵」を訪れ、住蓮房・安楽房に出家受戒の願いを申し出た。両上人は、出家するのであれば、上皇の許しが必要とその思いを止まらせた。しかし、両姫は「哀れ憂きこの世の中のすたり身と 知りつつ捨つる人ぞつれなき」と詠い、決死の出家の願いに両上人も心を動かされ、ついに住蓮房は松虫姫を、安楽房は鈴虫姫を剃髪した。時に松虫姫は19歳、鈴虫姫は17歳であった。
 このことを知った上皇は激怒し、この出来事をひとつの口実として、専修念仏教団の弾圧を企てた。翌建永2年(1207)2月9日、住蓮房を近江国馬渕(現在の滋賀県近江八幡市)において、安楽房を京都六条河原(現在の東本願寺近く)において打ち首の刑に処した。この迫害は、これに止まらず、専修念仏の指揮者である法然上人を75歳の高齢にも拘らず讃岐国(現在の香川県高松市)に流罪にし、弟子の親鸞(しんらん)聖人を越後国(現在の新潟県直江津市)に流罪の刑に処した。これを「建永の法難」という。

 安楽上人、辞世の句
「今はただ云ふ言の葉もなかりけり
   南無阿弥陀仏のみ名のほかには」

 住蓮上人、辞世の句
「極楽に生まれむことのうれしさに
     身をば仏にまかすなり希里」

 所在地:京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21番地。
 交通:市バス5・203・204系統「真如堂前」、または17系統「錦林車庫前」下 車、徒歩10分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする