「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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河合神社(かわいじんじゃ)

2006年02月26日 17時48分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 下鴨神社の境内にある河合神社の鎮座の年代は、不詳であるが神武天皇の代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とは、古代からこの神社の鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は「日本書紀」に「社戸」と訓まれ、それは本宮の祭神と同系流の神々との意である。延喜元年(901)12月28日の官符には「河合社、是御祖、別雷両神の苗神也。」ともある。

 社殿は、本宮(下鴨神社)の21年目ごとに行われた式年遷宮の度ごとにこの神社もすべての社殿が造替されていたが、現在の社殿は延宝7年度(1679)式年遷宮により造替された古殿を修理建造したもので、平安時代の書院造りの形式をよくとどめている。天安2年(858)名神大社に列し、寛仁元年(1017)神階正11位となったとある。古くから本宮に次ぐ大社として歴史に登場し、女性の守護神として信仰されている。
 元久2年3月、「新古今和歌集」に『石川や 瀬見の小川 清ければ 月も流れを たずねてやすむ 』をはじめ10首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。

 「方丈記」の著者、鴨長明はこの河合神社の神官の家に生まれたが、いろいろの事情によって、この重職を継ぐことができなかった。このことから強い厭世感を抱くようになり、やがて「方丈記」を書くにいたったといわれている。(復元された方丈が現在展示中)
 長明は、建暦2年(1212)3月、「方丈記」ついで「無名抄」を著し、 建保4年(1216)6月8日、62歳で没した。
 鴨長明は、50歳のときすべての公職から身をひき大原へ隠とんした。その後、世の無情と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元2年(1208)、58歳のころ(現在、京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上たのが、当社の「方丈庵」である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。
 広さは、一丈(約3メートル)四方、約2.73坪、畳、約五帖半程度。間口、奥行とも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう1つの特徴は、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた土居柱の構造である。
 この構造は、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は、式年遷宮により21年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。
 長明ゆかりの当社の斎庭に「方丈記」をもとに「方丈庵」を復元し、御料屋を資料館として、「鴨長明」関係資料展を方丈とともに年中公開している。

 方丈記の序の章を紹介しておこう。
 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し。
 玉敷の都の中に、棟を竝べ甍を爭へる、尊たかき卑しき人の住居すまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年破れて今年は造り、あるは大家たいか滅びて小家せうかとなる。
住む人もこれにおなじ。處もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、23人が中に、僅に1人2人なり。朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。また知らず、假の宿り、誰がために心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。その主人あるじと住家すみかと、無常を爭ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花殘れり。殘るといへども朝日に枯れぬ。或は花は萎みて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし。」
 所在地:京都市左京区下鴨泉川町。 
 交通:京阪出町柳駅・叡電出町柳駅より徒歩8分。JR京都駅より市バス4・205系統、下鴨神社前(または糺の森)下車。


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