「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「海住山寺」(かいじゅうざんじ)

2006年02月28日 23時40分14秒 | 古都逍遥「京都篇」
 真言宗智山派海住山寺は、明智光秀が本能寺で主君信長を討った折、堺に居た徳川家康一行が難を逃れるため決死の逃避行を辿った間道沿いにある山城の国・瓶原地区(みかのはら)の山の中腹にある。笠置の山峡が急にひらけ、木津川の流れもゆるやかになったあたりが、瓶(かめ)に似た地形であることから瓶原と呼ばれた。
 「みかの原わきて流るる泉川、いつみきとてか恋いしかるらむ」との小倉百人一首に収められた兼輔の歌で知られている。

 山上からは眼下に流れる木津川と奈良へと続く連峰が広がる。山紫水明なる幽邃(ゆうすい)の地に、当寺が創建されたのは、恭仁京造営(くにきょう)にさきだつ6年前、天平7年(735)のことと伝えられている。
 大盧舎那仏像造立を発願した聖武天皇が、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観世音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるという。保延3年(1137)に火災にあいことごとくを焼失した。その後、70余年を経た承元2年(1208)11月、笠置寺にいた解脱上人貞慶が移り住み、草庵を結び補陀洛山海住山寺と名づけ復興した。(補陀洛山とは、南海にあるといわれる観音の浄土の名)。以来、寺門は隆盛を極め塔頭58坊を数えた。

 1万坪の境内には、国宝の五重塔や重要文化財に指定された文殊堂をはじめ、山門、本堂、本坊、鐘楼、奥の院、薬師堂、納骨堂、春日大明神、かずかずの石仏、千年に垂ん
とする大木が天を摩し、静寂の境地にみちびいてくれる。四季それぞれ情趣に富み、春まだき頃には谷間をわたるうぐいすが早春賦をかなで、4月の桜、初夏には皐が咲きみだれ、峰をわたる青嵐はすがすがしく樹間にひそむほととぎすの声に、和歌の1つも詠みたくなる。
 秋には谷々の紅葉が錦をかざり谷間にり、行楽の季節を楽しませてくれます。
 まず目を引くのが、本堂に向かって左側にそびえる五重塔。あざやかな朱塗りの柱が山並みに映える鎌倉時代の傑作で、小ぶりながら端正な形に、精巧な木組みで、構造的には心柱が初層で止めらている、建保2年(1214)に、慈心上人によって作られ、昭和38年(1962)の解体修理にあたり、初重の屋根の下に裳階が復元され、現存する五重塔では海住山寺と奈良の法隆寺にしかない特長を有する珍しい造りである。
 五重塔と向かい合うように、重要文化財指定の文殊堂があり、やはり鎌倉時代の建立で、寄せ棟の繊細な形をしています。
 寺務所に依頼すれば本堂内陣、重要文化財の御本尊十一面観音像を拝観することができるが、秋の「海住山寺特別展」の時期には、奈良の国立博物館等に管理している宝物も展示され拝観できる。
 十一面観音菩薩立像(重要文化財)は、45.5㌢と小像ながら、リアルな彫刻がほどこされていて心が安らぐ思いがする。石船を紹介しておくと、長さ2㍍余り、高さ70㌢、幅1.1㍍程の花崗岩製の水槽。寺僧が冷水浴に使ったものと言われ上縁に正嘉2年(1258)の紀年銘が刻まれている。

 「恭仁京」を説明しておくと、奈良時代に聖武天皇によって造られた都で、疫病や戦乱に見舞われ世情不安が続いたことから、聖武天皇は奈良の平城京を離れ各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めた。これが恭仁京である。しかし恭仁京も天平16年(744)、わずか4年ほどで廃都となり、その跡地は山城国分寺として再利用された。山城国分寺は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北三町(約330㍍)、東西二町半(約275㍍)の広大な寺域をもつ寺であり、現在 も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されている。この塔は基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されている。
 所在地:京都府相楽郡加茂町里南古田156。
 交通:JR関西本線加茂駅からJRバスで岡崎下車、徒歩30分。加茂駅からでも50分。近鉄京都線山田川駅下車、笠置伊賀上野方面行きバスにて学校前下車、徒歩約25分。
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